2023年8月31日放送 1:29 - 2:28 NHK総合

アナザーストーリーズ 運命の分岐点
新日鉄釜石ラグビー7連覇 東北で起きた2つの奇跡

出演者
松嶋菜々子 
(オープニング)
今回は…

ラグビーワールドカップ2019 日本大会に負けないほどの盛り上がりを見せたが奇跡の快進撃があった。1979年1月15日、小さな町の社会人チームが日本一をかけた戦いで大学No.1チームを倒し、85年まで強豪校を退け前人未到の日本選手権7連覇を成し遂げた。チームは「新日鉄釜石ラグビー部」。メンバーは寄せ集めの雑草集団。製鉄所で働き夜のわずかな時間で猛練習。そこに都会から来た天才プレーヤーが加わった。そして本拠地・釜石市ではもう1つの奇跡が。東日本大震災を乗り越えてワールドカップ開催を実現した。

キーワード
ラグビーワールドカップ2019新日鉄釜石ラグビー部日本ラグビーフットボール選手権大会東日本大震災鵜住居町(岩手)
オープニング

オープニング映像。

新日鉄釜石ラグビー7連覇 東北で起きた2つの奇跡
視点1 釜石で起きた革命

釜石市が日本選手権7連覇を成し遂げた新日鉄釜石ラグビー部の本拠地だった。1964年、一人の男が新日鉄の前進・富士製鐵に入社する。市口順亮さんは後にラグビー部を率きチームを変えていく。1960年代の釜石製鉄所は年間100万トンの鉄を生産。高度経済成長期の日本を支える花形産業。東北中から若者が集った。そこへ京都大学工学部出身の市口さんが鉱山技師として入社する。京都大学ラグビー部でキャプテンをしていて力を期待されての釜石市赴任だった。しかし1964年、ラグビー部は部員22人で人数不足のため試合形式の練習もできない状況で全国制覇など夢のまた夢だった。そこで市口さんはまず人材確保に乗り出した。高校の有望選手は名門大学や大手企業にとられる。市口さんは無名でも伸びしろのありそうな高校生を探し歩いた。そんな中で見つけた1人が和田透さん。のちに日本代表となる和田さんだが市口さんに口説かれなかったら別の仕事に就く予定だったという。5年後、市口さんがキャプテン兼監督を務めるころには部員数はギリギリ紅白戦ができる31人まで増えた。彼は製鉄所の社員で朝8時~夕方まで普通に働き練習はその後だった。時間は足らず仕事の疲労も重なる。しかもグラウンドは厳しい環境だった。グラウンドがよく見える理容室では厳しい練習をみてきた。強くなれる環境とは言えなかったが市口さんは「ラグビーと仕事を両立させるんだ」と理想を説いては部員と衝突した。状況を打破する抜本的な改革が必要だったときに偶然見つけたのがラグビー発祥の地・イギリスの教則本。部員に読んで研究するよう伝えるが読めなかった。しかし市口さんはしつこく海外の資料を買い集め自ら翻訳し部員たちに読ませていった。練習も心拍数の目標値を決めるなど科学的になっていく。さらに厳しい寒さへの対策としてユニークな練習も取り入れた。全員参加でパスしながら鬼ごっこの練習が思わぬ副産物につながる。それまでスクラム要員としてパスの技術を求められなかったフォワードもパス練習を始め画期的なプレースタイルが生まれた。パスは釜石の伝統的な練習方法となっていき効果は徐々に現れた。1970年、市口さんは監督に専任し全国社会人大会で初優勝した。そして1971年の日本選手権。相手は早稲田大学。しかし早稲田はスピーディーな展開で釜石を振り回し完敗だった。そこで市口さんは常識外れな戦略を思いつく。名付けて「88艦隊」。身長180cm、体重85kgの大型フォワードを揃える。その彼らを走れる集団に鍛え上げようとした。翌年、入社してきたのは瀬川清さん・洞口孝治さん。2人は走れる巨漢のスローガンの元、毎日しごき抜かれた。溶接が仕事の洞口さんは自らの手で鋼鉄製のスクラムマシンを作り上げた。最後に必要なのは司令塔だった。そこで目をつけたのが明治大学を初日本一に導いた人気選手・松尾雄治さん。東京で生まれ育った松尾さんを釜石に呼ぶため、明治大学の名物監督・北島忠治さんの入れ知恵の「1番」とつけ話した。松尾さんは数ある選択肢から最も印象的だった釜石に決めた。これで市口さんの理想を実現する最後のワンピースが揃った。1977年の日本選手権。釜石は再び日本選手権に進出し相手は敗れ去ったスター軍団・早稲田大学。松尾さんが加わった釜石は確かな進化を遂げていた。持ち前のパスラグビーでトライを奪う。市口さんが指導し13年、釜石は初のラグビー日本一に輝いた。2年後、語り継がれる7連覇が始まる。しかし達成するまでには波乱のドラマが待ち受けていた。

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京都大学北島忠治宿沢広朗富士製鐵新日鉄釜石ラグビー部日本ラグビーフットボール選手権大会早稲田大学明治大学洞口孝治釜石市(岩手)
視点2 天才と雑草集団

天才司令塔・松尾雄治さんの活躍なしに奇跡はなし得なかった。前人未到の日本選手権7連覇達成を最後に現役を引退した。有終の美を飾ったはずだが笑顔がない。松尾さんは1976年に新日鉄に入社。チームに合流しラグビーに対する情熱に驚かされた。松尾さんは部員たちに自分がもつ戦い方のセオリーを伝え始めた。ヒラメキの男は意外にも決まり事を大切にする男であった。部員たちはスター選手のおごりを感じさせない松尾さんのことを信頼していく。戦術の基本を叩き込み、どのチームよりも練習することが加入し早々に日本一を勝ち取ったのはそこにある。だが翌年、チームに衝撃が走る。松尾さんが椎間板ヘルニアを悪化させ入院し再起不能と言われた。入院は8ヶ月間にも及んだ。1977年度、全国社会人大会準決勝で敗退する。だが松尾さんはチームにとって欠かせない仲間で部員たちは練習を続け松尾さんの完全復活を待ち続けた。松尾さんは腰に爆弾を抱えたまま釜石のために戦い続けることを決意を固めた。そして1979年、日本選手権。24-0で勝利しビクトリーロードが始まる。松尾さんの母校・明治大学にも大差で大勝。いつしか観客席では地元・釜石市から持ち込まれた大漁旗が振られるようになった。釜石の勝利は小さな港町にとって誇りとなっていく。やがて北の鉄人と呼ばれるようになり人気は全国区となった。5連覇をかけた1982年から松尾さんは選手兼監督に就任。共に練習に打ち込んだ若い仲間が才能を開花していた。予想以上の成長をみせる若手を見て松尾さんの中には1つの確信が生まれる。松尾の考えが見事に現れたプレーがV7の年の全国社会人大会決勝、松尾のパスから始まりパスがつながり13人で繋いだプレーは日本ラグビー史上、最も美しいトライと称された。実は松尾さんはこのシーズンが終了したら現役を退くことを仲間に伝えていた。だが日本選手権8日前、松尾さんはアクシデントに見舞われる。社会人大会で痛めた足首が悪化し入院。診断は「化膿性関節炎」。歩くこともままならない絶対安静の重症だった。そして迎えた1985年の日本選手権。相手は大学3連覇を果たした同志社大学。そこに松尾さんの姿はなかった。病院からスタジアムに直行した松尾さんはロッカールームにいてキャプテン・洞口さんからチームにはお前が必要だと言われ、自分の信念を曲げ本調子ではないのを覚悟で松尾さんはグラウンドにたった。前半、松尾さんが天才のヒラメキを見せる。敵をギリギリまで引き付け飛ばす。前半を1点差で終えた。後半、フォワードがスクラムを押しまくり逆転。後半18分、松尾さんの鋭いステップが相手ディフェンスを切り裂き同志社を突き放すトライが決まる。最後のトライも松尾さんのパスからだった。31-17で勝利し松尾さんと仲間の絆で達成した7連覇だった。しかし松尾さんはグラウンドに立ち続けた自分に苦い思いを拭えなかった。こうして日本のスポーツ史に釜石の1つ目の奇跡が刻まれた。

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視点3 奇跡を再び

ラグビーワールドカップ2019 日本大会で開催地の1つとなった釜石鵜住居復興スタジアム。作られた場所は東日本大震災で甚大な被害を受けた鵜住居町。ここで開催しようという声があがったのは震災からわずか4カ月後。その時は誰にとっても夢物語に過ぎなかった。招致のリーダーを務めたのは7連覇の遺伝子を受け継いだ男・桜庭吉彦さん。1985年、松尾さんが引退した直後に入社した桜庭さん。しかし苦難の始まりだった。入社し4年後、経営合理化が進み釜石のシンボル・高炉の火が消えた。そしてラグビー部の成績も低迷し優勝から遠ざかり釜石ラグビーが崖っぷちに立たされる。2001年、新日鉄釜石ラグビー部は廃部が決定した。だが、クラブチーム・釜石シーウェイブスが誕生した。市民や地元企業が手を上げ地域のクラブチームに生まれ変わった。そこにはかつてと同じように大漁旗で応援してくれる市民の姿があった。桜庭さんは現役引退後、チームディレクターとして地域に愛されるクラブ作りに励んだ。しかし2011年に東日本大震災が発生。釜石市の町も津波に襲われた。選手たちはこの事態に立ち向かい支援物資を運ぶボランティアを買って出る。変わり果てた釜石市の姿の惨状に立ち上がったのがV7の選手たちだった。震災から2カ月後、NPO法人「スクラム釜石」を結成し全国に復興支援を呼びかけた。一環で開かれたトークイベントで松尾さんのパスを受け取ってくれたのはかつてしのぎを削ったライバル・平尾誠二さん。大学卒業後、神戸製鋼に入社した平尾さんは阪神淡路大震災を経験していた。被災地にとって何が励ましになるのか分かっていた。釜石市でワールドカップが出来ないかスクラム釜石は役所に打診する。しかし話を聞いた桜庭さんは無理だと思ったという。だが子どもたちを招いてラグビー教室を開いたとき笑顔をみて心境の変化が現れる。桜庭さんはワールドカップ招致の先頭に立つアンバサダーに就任し釜石市でワールドカップ開催する意義を伝えて回った。その熱意は釜石市民にも伝わっていく。しかし壊滅的被害を受けた町には会場となるスタジアムがなくワールドカップ視察団が訪れた。迎えた2015年3月、試合会場発表の日。人口焼く3万人の釜石市が選ばれた。翌年、スタジアムの建設予定地が津波に飲まれた小中学校の跡地に正式決定し2017年から急ピッチで工事が進んだ。その中にはV7に携わった1人・石山次郎さんもいた。そして2019年9月25日に釜石市でワールドカップが開催された。東北の小さな町に世界中からファンが集まった。桜庭さんは1万4000人を超える観客を会場で迎えた。会場にはたくさんの市民が訪れ、そして子どもたちも招待された。スタンドでは大漁旗が振られていた。釜石市は再びラグビーの町として名を轟かせた。釜石市で開催されたワールドカップでは小さな奇跡の物語がある。実は釜石市ではもう1試合行われる予定だった。しかし台風19号の接近で中止となってしまった。当日は台風一過で晴天となった。試合もないが駅前には人々が自然に集まりボランティアが用意していた大漁旗をキックオフの時刻に会場外で振られた。試合ができなかった両チーム、釜石市に敬意を示して。そして試合が出来なかったがカナダ選手たちが泥かきを勝って出てくれた。

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