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2017年5月20日放送 1:25 - 2:15 NHK総合

ブレイブ 勇敢なる者
Mr.トルネード〜気象学で世界を救った男〜

出演者
(オープニング)
オープニング

数々の人々がシカゴ大学の教授・気象学者の藤田哲也を讃えた。

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シカゴ大学藤田哲也
Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~
竜巻大国 アメリカ Mr.トルネード藤田哲也博士の業績

毎年1000以上もの竜巻が発生する竜巻大国アメリカ。シカゴ大学教授・藤田“テッド”哲也。気象界で彼は「Mr.トルネード」という愛称で呼ばれ友人は彼を「テッド」と呼んだ。フジタ(F)・スケールは竜巻の強さを分類する世界的単位で地震の震度に値する世界的基準を藤田が考案した。

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シカゴ大学藤田スケール藤田哲也
1975年12月 イースタン航空66便の墜落事故の解明

1975年12月、藤田哲也博士はある航空機事故墜落の謎に挑もうとしていた。1975年6月24日、ジョン・F・ケネディ国際空港。イースタン航空66便が最終アプローチに入ろうとした時、着陸に失敗し乗員・乗客115人が死亡した。その原因は謎に包まれていた。事故報告書によると墜落事故5分前に管制塔に異変を訴えていた。空港で観測していた風はごくわずか、902便の機長は風のせいで着陸をやり直したと管制塔に伝えていた。これらのやり取りを66便も聞いていた。事故直前に起きたとみられる風の急変、その謎の風の正体を誰も分からなかった。

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藤田哲也

元日本航空機長の上田恒夫も謎の風に遭遇していた。上田は藤田の存在を知り直接シカゴ大学の研究室を訪ねた。上田は当時を振り返り「竜巻の経過後、犠牲になった遺体が収容されている写真を見せられて泥だらけになってね、原子爆弾の投下後の現場の写真を思い出したんですが、藤田先生はどんな意図があったのか分かりませんが」と話した。藤田は自身の過去を語る事はなかった。1945年8月20日、藤田は原子爆弾投下後の長崎にいた。藤田は仕事の話以外話さず、藤田の愛弟子グレッグ・フォーブス博士も藤田の過去は知らなかった。藤田が70歳で退官する際に記した回顧録「The Mystery of Severe Storms(強力な嵐の神秘)」には「私の人生は“幸運”と書かれた石の上を歩いているようなものだった」と書かれていた。

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The Mystery of Severe Storms日本航空藤田哲也
1947年 背振山 雷雲の下降気流の発見

福岡と佐賀の県境にある脊振山山頂の観測所に通っていた藤田博士は、雷雲には下降気流があることを発見して論文に発表したが、日本では注目されることはなかった。気象庁によって、すでに雷雲の下降気流が発見されていた。元気象庁職員で、藤田博士と親交があった土屋清さんは、藤田は気象の専門家ではなく、気象学の講義は受けたことはないと話す。独学で始めたという。当時藤田は明治専門学校の物理学助教授で、気象学はお金がかからなかった為選んだと話している。ある日藤田は、観測所の隣にあった米軍レーダー基地のゴミ箱に、シカゴ大学の論文が捨てられてあったのを発見した人から、「米国でも雷雲の研究をしている人がいる」と教えてもらった。その論文を眼にした藤田は自分の考えと同じことが書いてあると驚いたという。そして藤田は、気象学が専門の、シカゴ大学学部長のホーレス・バイヤース教授宛に自らの論文を送った。無名学者が送ってきた論文に、バイヤースは衝撃を受けた。バイヤースが「サンダーストーム観測計画」として行っていた研究は、米空軍の支援と莫大な投資で成し遂げられたものだった。バイヤースから藤田のもとへ手紙が届いた。手紙には「我々は数百万ドルをかけて研究した。君はいくらかけた?」と書いてあった。藤田は、「50ドル70セントくらいですかね」と回答した所、大学側から「今すぐ来てください」と請われ渡米した。藤田はインタビュー中、とても面白い巡り合わせだったと話した。

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シカゴ大学気象庁脊振山

1953年8月、藤田博士は渡米した。シカゴ大学でバイヤース教授が竜巻の研究を持ちかけた。1957年藤田博士はノースダコタ州ファーゴに到着、現地では少し前に戦争していた相手なのだが日本のことはあまり知られていなかった。竜巻の発生地域は人口はまばら、被害の実態も掴めなかった。藤田博士はメディアを通じて竜巻の目撃情報を集めた。200枚近くの写真を測量で分析、竜巻の全貌を明らかにした。藤田博士の名前は一躍脚光を浴びた。土屋清さんは藤田博士は色々なものを合わせて考えているのでアメリカ人も驚いたと思うと話した。ジム・ウィルソンは藤田博士はとにかく観察し、写真を徹底的に撮影をしたとし、気象学のシャーロック・ホームズだと例えた。中村政雄さんは藤田博士は今までの気象学者がやらない方法で気象学を表現したとし、グラフィックに長けていたので気象界のディズニーだと話した。ロバート・アビーは藤田博士は竜巻発生装置を設計するほど、機械工学にも才能があったと話した。

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シカゴ大学竜巻
Mr.トルネード 藤田哲也の原点

藤田哲也博士は多才な顔を持ち、気象学の常識を次々と覆した。その原点は故郷にあった。藤田博士は1923年10月23日に福岡県北九州市小倉南区で生まれ、中学生で父を亡くし、妹と弟を支えたが、その時に母を亡くした。大学進学を断念しそうだったが、校長が明治専門学校(現九州工業大学)への進学を願い出てくれた。中村弘は校長は特待生での入学推薦した。藤田博士は機械科に入学、その経験が竜巻発生装置の開発に結びつく。入学したが、生活は苦しかった。生活費を支えるため、地質学の松本唯一教授の助手をした。そこで地図の作り方などを覚え、20歳の頃には立体図を完成させた。教授の地質調査に同行し、藤田博士は感銘を受けた。教授は地図を歩くのではなく、訂正しながら歩き調査した。ここで鵜呑みにせず、ものごとの本質に迫る姿勢となった。

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九州工業大学
1975年12月イースタン航空66便の墜落事故の解明

1975年12月、シカゴ大学教授だった藤田博士はイースタン航空66便の墜落事故の解明に取り組んだ。当日の無線データ、気象状況などを分析。ロバート・セラフィン博士は藤田博士は木が放射線状になぎ倒されているのを見て閃いたとと証言。1974年4月史上最大の竜巻が発生、航空写真には木が爆発したようになぎ倒されている妙なものがあった。1945年藤田博士は原爆投下から10日、長崎を調査。長崎原爆資料館には藤田博士がまとめた爆風地図が保存されていた。藤田博士は被害状況を1枚の地図にまとめた。3日間、焼け野原を歩き、わずかな痕跡から原爆の実態を明らかにした。奥野正太郎は爆心地から離れるほど、より木が倒れていると解説。藤田博士は下降する風が地面にぶつかり、拡散した核爆発のような衝撃波現象を思い浮かべた。局地的に、雷雲から吹き下ろした衝撃波が起きたとし、「ダウンバースト」と名付けた。ダウンバーストに遭遇すると、向かい風で機体が持ち上がり、下降気流が機体を地面へ押さえつけ、追い風が揚力を奪い、急降下させるという新説を発表。しかし、気象学界は誰も賛同しなかった。ジョン・マッカーシー博士は同意できない点があった証言、ジム・ウィルソンは藤田博士は通常の気象雑誌に査読しゃからの疑問に答える時間を惜しみ投稿しなかったと明かした。グレッグ・フォーブス博士は藤田博士の研究の多くが自主出版だったため受け入れられなかった、他の科学者に批判された時は動揺していたと話した。小野寺三朗さんは当時のダウンバースト論争は藤田博士には忘れられないことだったと話した。藤田博士は慎重な研究者なら10年かけるだろうが、航空事故調査は急を要したと話した。藤田博士はダウンバーストでより怖いのはマイクロバーストだとし、ジム・ウィルソンは課題は「マイクロバーストの存在を立証できるか」だったと話した。

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イースタン航空シカゴ大学ダウンバーストマイクロバースト核爆弾長崎原爆資料館

コロラド州ボルダーのアメリカ国立大気研究所で、藤田博士はマイクロバーストを立証するための大規模な観測計画を実行。ロバート・セラフィン博士は最新の観測レーダー技術を提供。ジム・ウィルソンはレーダー主任を務めた。1978年5月19日イリノイ州シカゴ郊外で、NIMROD観測計画を開始。観測開始11日目の夜、突然雷雲がレーダーから5kmで発生、秒速31mの突風が出現した。マイクロバーストが世界で初めて観測された。ロバート・セラフィン博士は外で何が見えるか調べようと外に出ると、遠くを見ていると突然風に打たれ、藤田博士は池に吹き飛ばされそうになりながら、興奮していたとした。

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アメリカ国立大気研究所マイクロバースト
1982年 コロラド州 デンバー 「JAWS観測計画」開始

藤田博士はマイクロバーストを観測したが、論争は終わらなかった。レーダーの観測網が広すぎ、詳細まで捉えなかった。そして1982年コロラド州 デンバー、大規模な観測計画、「JAWS観測計画」を開始した。ジョン・マッカーシー博士はダウンバーストを信じられないち言っていたが、専門家となっていた。レーダーの観測網を狭くしたが、1台が故障した。藤田博士はレーダーを垂直に向けようと提案、マイクロバーストが上空から吹き下ろす瞬間を観測した。当時、読売新聞の記者だった中村政雄に証拠のネガと手紙が速達で届いた。この調査でマイクロバーストが200近く観測。リタ・ロバーツ博士はマイクロバーストが頻発している事実は研究者に衝撃を与えたと話した。

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ダウンバーストマイクロバースト
マイクロバーストによる航空事故

1982年7月9日、観測計画中にパンアメリカン航空機がマイクロバーストによる墜落事故が起こった。ジム・ウィルソンは墜落事故を防ぐために研究しているのに事故が起きたとし、1985年デルタ航空機の事故が起きた。藤田博士は突然発生するダウンバースト、マイクロバーストの注意を呼びかけた。小野寺三朗さんはすべての積乱雲が発生するわけではないが、たまに起こすと話した。パイロットは藤田博士の説を支持し、早急な対策を求めた。ウェイン・サンドは観測結果でパイロットがマイクロバーストに遭遇する確率は一生に1度だったが、問題は確率ではなかったと話した。国家運輸安全委員だったジョン・ローバーは藤田博士がマイクロバーストの存在を示してくれた、そこで風の急変への対応をしたと話した、航空業界はパイロットの訓練が行い、機体には風の急変の警報機が搭載された。空港にレーダーが必要だとし、ターミナル・ドップレーダーシステムが開発され、世界中で導入された。ジョン・ローバーはこれにより、風の急変による事故が発生しない現在の状況となったと話した。1989年藤田博士はフランス国立航空宇宙アカデミーで金メダルを受賞。ウェイン・サンドは「以前は18か月ごとにマイクロバーストでの事故が起きた、藤田博士がアメリカに来て幸運だった」と話した。藤田博士はアメリカ市民であることを誇りに思うとし、1991年シカゴ大名誉教授に就任。

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藤田哲也 自身の糖尿病の記録

藤田博士は74歳で糖尿病を患い、ウェイン・サンドは「しっかりしろよ」と言ったが、悲観的だったと話した。ロバート・アビーとは家族同然の付き合いをしてきた。藤田博士はロバート・アビーの提案で、自分の病気を記録することを始めた。ロバート・アビーは藤田博士は独自の調査方法で自分の痛みを数字やグラフィックで表したが、この調査は研究ではなく、何かを目的にもってもらうことが必要だったと話した。1998年11月19日、藤田博士はシカゴの自宅で逝去した。

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