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レースを終えたばかりの各校の最新情報をお伝えする。
第100回箱根駅伝のハイライト。1区では駒澤大が先頭でタスキが渡った。3区では、太田蒼生選手がトップに。往路優勝は、青山学院大学の若林宏樹選手だった。往路新記録の5:18:14。復路ハイライト。8区から9区では山梨学院大学が繰り上げとなった。100回目の箱根駅伝は青山学院大学が総合優勝。大東文化大学がシードを獲得した。
第100回箱根駅伝、青山学院大学が総合新記録を打ち立てての王座奪還となった。10区間中、5区間で青山学院大学が区間賞を獲得した。
きのうの5区、山上りで区間新記録をだした2人のランナーが掲げる目標、それは「山の神と呼ばれるようになりたい」とのこと。大会前、歴代の山の神が集結した。山の神の条件は、今井さんの1時間9分12秒を超えること。むかえた昨日の往路。今井さんが山の神候補に上げたのは、青山学院大学の若林選手と、城西大学の山本選手。悪天候でのレースだったが、若林選手の記録は1時間9分32秒、山本選手は1時間9分14秒だった。今井さんは「期待感を持ちました」と話した。
きのう大手町のスタート地点で、駒澤大の大八木名誉監督は走っていた。鶴見中継所、チームはトップでタスキリレー。大八木さんも走っていた。大八木さんが沿道からはじめて応援するのは、キャプテンの鈴木芽吹選手。すぐさま走り始め、芦ノ湖で往路フィニッシュを見届けた。
駒澤大・鈴木芽吹選手と佐藤圭汰選手のインタビュー。鈴木芽吹選手は「優勝だけを目指していたのでとくかく悔しい」などと話した。佐藤圭汰選手は「自分のところで逆転されてしまったので、本当にチームに申し訳ないという気持ちでいっぱいですし、リベンジしてくれよと言ってくださった。」などと話した。
東洋大・酒井俊幸監督のインタビュー。「学生たちが昨年の10位からチームを信じよく頑張ってくれた。それぞれの区間で最後もっている力を出してくれたと思います。」などと話した。
30分前、黒岩弘樹さん(45)が学生たちに混じり給水の準備をしていた。息子である中央学院大学2年の黒岩勇禅に力水を渡す。実は弘樹さん自身も中央学院大学のランナーだったが、箱根駅伝の出場は叶わず、夢を息子に託していた。100回大会の出場が決まると、弘樹さんは自身も指導を受けていた川崎監督から給水係に指名され、25年の時を経て初めて箱根路を走ることになった。父の思いも襷に込めて息子は区間6位の快走だった。
順天堂大学4年の三浦龍司は、東京オリンピックの3000m障害で日本選手初の7位入賞を果たした学生オリンピアンだ。一気に世界へと駆け上がった三浦は最終学年で、新チームのキャプテンを志願するも世界大会出場のため、練習はほとんどが別メニューで、チームを離れることも多く、キャプテンとしての役割を果たせない葛藤もあった。むかえたきのうの往路では、1区で三浦は粘りの走りを見せ、トップと36秒差で襷リレーをした。
総合優勝の青山学院大学の原晋監督、黒田朝日選手、太田蒼生選手、若林宏樹選手にインタビュー。原監督は「お陰様で勝たせていただきました。青山学院大学も150周年、私も就任20年、箱根駅伝100回こんな縁起のいい語呂合わせで勝ったこと学生たちに感謝したい。12月にトラブルが起こった。箱根駅伝直前でインフルエンザの集団感染が起こったことは初めて、大きく練習の流れが変わった。その中でも早稲田大学の大学院で箱根駅伝メソッドというものを論文化させ体系化させた基本軸があるからこそ柔軟に対応することができた」などと述べた。黒田選手は「僕自身もインフルエンザに感染してしまって12月は調子も上がらず不安要素もあったが、直前になって調子も上がって2区区間賞もとれて満足している」などと述べた。近藤幸太郎選手にもアドバイスをもらったという。太田選手は「前が見える状態でタスキを受けたのであとは僕が差をつめてトップに立ってタスキを渡すだけだと思って走り始めた」などと述べた。若林選手は「3区を走った佐藤圭汰選手は自分の後輩でもあるのでそれに勝つのかという驚きが強かった」などと述べた。原監督は「私と同じゼミのゼミ生でもあるので、ゼミ生からも若さんと呼ばれているのでより若林の各が上がった。でもまだ山の神に任命するのは早い。10区間中、7名残ります、ただ浮かれたときに青山学院大学負けてますので厳しい状況だと勝ってますので浮かれることなくがんばっていきたい」などと述べた。
中央大学は直前に体調不良者が続出。地獄のような10日間だったと振り返る。復路で阿部が体調を崩していたと1キロ3分20秒でいいからとにかくつなげようと見守っていたという。
去年夏に部員の高橋彰太選手が急逝し、法政大学の選手は全員が喪章を付けて走った。高橋選手の思いを坪田監督に聞いた。坪田監督は「出だしの武田がいい記録を作ってくれた。その流れを残り4人がしっかりつないでくれて昨年より1つ順位を上げることができたので評価できるのかなと思う。高橋彰太が8月にいなくなって、みんな気持ちは1つで走ってくれたと思う。私も声がけして苦しいときには一緒に走っていることをイメージしながら最後まで走ろうと走った選手は10人ですけど、最後まで高橋と一緒に走れた」などと述べた。
東海大学の両角監督は「11番ということで悔しい結果。どちらかというと学生がどうしてもシードに入らなければいけないという部分で焦りがあったかなと思う。入っている距離がもっと長くなかったらきついんだろうなと感じた。しっかり立て直して復活の狼煙というテーマを持ってのぞみましたが、やれることはやったと思うので次につなげたい」などと述べた。
神奈川大学・大後監督は「私自身も今回で最後の指揮ということで思い出の大会になるなと思っていた。沿道のみなさん方の応援と、全部目に焼き付けようと1区からずっと焼き付けたつもりで戻ってきた。何年やってもうまくいかないのが箱根」などと述べた。
順天堂大学・長門監督は「流れが悪かった、初めて箱根を走った選手がうまく走れなかったという準備段階から問題があったのかもしれない、いちから予選会からだ」と言っている。
第100回箱根は幕を下ろしたが、これからまた歴史は続く。速さだけでなく強さも含めたチームづくりは各チームしてもらいたい。そうしないと世界で戦えない。最後の箱根となった今の4年生はコロナ禍の4年間目標に向かって走り続けてきた。彼らにとって箱根駅伝はどんな場所だったのか。4年生たちのラストラン、などと伝えた。
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- 第100回東京箱根間往復大学駅伝競走
駒澤大学・鈴木芽吹は「悔しいです。でも幸せです」と話した。法政大学・松永伶は「陸上を始めた頃は神野大地さんや柏原竜二さんだったり、そういった方々と写真を一緒に撮れて憧れの舞台だった。もし自分がそういったあこがれの存在に1人でもなったとしたら勇気づけることができたなら、頑張ってきて良かったなと思う。」と話した。青山学院大学・佐藤一世は「本当走れない同期の分まで頑張らないとと思って、きつくなったときはずっと同期の顔を思い出しながら走っていた。楽しいことも辛いことも共有できて仲間がいたからここまでできたと思っているので、ありがとうと伝えたい。」と話した。東海大学・石原翔太郎は「出し切った。最後100回大会の箱根駅伝を走ることができてすごく嬉しい部分もある、この悔しさを持って次のステージで必ず活躍していきたい。」と話した。東洋大学・松山和希は「2区に思い入れはあったが、最後4区でこのチームに貢献できたのは嬉しい。箱根駅伝とは憧れの舞台というか夢の舞台というのが自分の中で今まであったかなと思う。」と話した。