- 出演者
- 田中裕二(爆笑問題) 太田光(爆笑問題) 阿川佐和子 川島海荷 上川隆也 高橋英樹 徳川家広 磯田道史 千葉公慈 重岡大毅(WEST.)
オープニング映像。
徳川家康は豊臣家を滅ぼすつもりはなかったという。二条城は家康が将軍就任の儀式にともない築上され、大政奉還の舞台でもある。大坂夏の陣の4年前、東のトップ家康と西のトップ豊臣秀頼で行われた二条城会見では当代記によると、家康が秀頼を庭から招き入れたと記されている。これは当時の格式高い礼法だ。
家康の連立政権の構想は二人の座り位置からも読み取れる。家康は二人で上座に座り対等にしようと言ったが、秀頼は提案を断って下座へ座った。家康は自分の死後、豊臣家がいれば再び戦乱の世になると考え、連立政権の夢を諦め大坂の陣を決断したのかもしれない。
磯田は江戸時代の260年はこの国の素地を作ったと話した。今回は謎を1つ解くごとに1文字のキーワードが判明する。1つ目は「じ」。
徳川体制を盤石にしたのが3代将軍の家光と言われている。このとき起きた島原の乱という農民一揆は民衆の不満が爆発した超大規模一揆で、全国のブ氏約100人に1人が死傷したという。16歳の天草四郎を中心に3万7千人のキリスト教徒が立ち上がった。ポルトガルの援軍を信じて籠城した。幕府軍は12万以上でも落城できなかった。原城跡には幕府が大苦戦した秘密が隠されている。
島原の乱の舞台・原城跡には幕府が大苦戦した秘密が隠されている。堅牢な石垣によって幕府は予想外の大苦戦となり、日本各地に飛び火する可能性もあった。当時の将軍・家光は幕府一の切れ者・松平信綱を送り込んだ。
島原の乱で幕府の総大将・松平信綱はポルトガルからの援軍が来ると信じている一揆勢に精神的ダメージを与えるため、オランダ船に攻撃を要請した。こうした心理戦や兵糧攻めにより激戦をなんとか鎮めた幕府だったが、この内乱で幕府は民衆の強さに気づいた。島原の乱をきっかけに徳川幕府は平和に舵を切った。キーワード2つ目は「さ」。
忠臣蔵は徳川綱吉の時代に本当に起こった赤穂事件が基になっている。吉良上野介を恨んでいた浅野内匠頭が江戸城内で刀を抜き、これが原因で切腹を命じられ藩も取り潰された。その後、浪人になった浅野の家臣47人が仇討ちをした。当時の法で言えば集団の討ち入りは厳禁、幕府の権威を傷つける事件だ。泉岳寺には討ち入りをした武士47名の墓があり、忠臣蔵ゆかりの地として知られる。泉岳寺には大石内蔵助が吉良上野介の首を洗ったと言われる井戸がある。
集団による襲撃は禁止されていたが、幕府は赤穂浪士の名誉を守った可能性がある。もともと泉岳寺には江戸城で刃傷事件を起こして切腹した浅野内匠頭の墓があったが、討ち入り後に処刑された赤穂浪士47名の墓もその隣に建てられた。そもそも泉岳寺を建てたのは徳川家康で、泉岳寺にお墓があるのは幕府トップの判断ではないかという。5代将軍の綱吉は近年の研究で評価が変わっている。生類憐れみの令は動物だけでなく捨て子や高齢者などを大切にしなさいとした法令だ。また、女性の権利を非常に高めた。前代未聞の集団襲撃事件の処分について幕府内で意見の対立があった
大石内蔵助を介錯したとされる刀には「備前長船」と刻まれている。名刀で介錯したのは幕府が名誉を守った証拠と言える。罪人を処刑するなら斬首だが、切腹は武士の名誉を守るものだ。また、大石内蔵助は特別な許可がおりて火鉢を使えたという。
綱吉は武士のための法律「武家諸法度」の第一条を改めて、忠誠心や親孝行の気持ちを持って礼儀を正しなさいという内容に変更した。討ち入りは平和を乱す犯罪で許されないが、綱吉が求める「忠義心」を大切にした結果だった。討ち取られた後の吉良家は簡単に討ち取られるのは侍の資格がないと言って、取り潰され屋敷を没収された。
当時の江戸の町は最も警備が厳重で、普通なら討ち入りはは不可能だった。大石内蔵助が討ち入りの前日にお世話になったお寺に書いた手紙には幕府の密偵がついているが見て見ぬふりをしていると記していた。赤穂浪士の16名は江戸城近くの麹町に潜んでいた。刃傷事件以降、「吉良の仇討ちをする」という噂が立っていた。さらに、警備が厳しい所にいた吉良邸は警備の薄い両国に移転させられた。キーワード2つ目は「の」、4つ目は「ん」。
日本史上最大の大火事「明暦の大火」は街の6割が消失、死者は約10万人とも言われている。家綱の補佐役・保科正之は江戸を民衆のための防災都市にすると意見している。当時、火から逃げたくても隅田川を渡れなかった人がたくさんいたので、幕府は避難経路が必要だと考えた。両国橋は避難経路としても使えるように造られた。それまでは防衛上の点で隅田川には千住大橋以外架かっていなかった。また、これまでの城下町は敵が攻めにくい入り組んだ町並みが一般的だったが、家屋が密集すると火が燃え広がると考えた。
上野広小路は明暦の大火の後の防災対策の名残だという。建物が密集すると火が燃え広がるので、延焼を防ぐ広い道・空間を作った。また、保科正之は焼けた天守を造らなかった。幕府は体裁よりも町の復興を優先した。保科正之は2代将軍・秀忠の側室の子で、正室のお江に殺されかけた。天守閣はお江の伯父の織田信長が作ったもので、織田家絡みのものは全部嫌いだという。
8代将軍・吉宗は就任早々、大奥で大量のリストラを行った。当時、大奥の中でもトップの実力者だったと言われる絵島は先代のお墓参りで街へ出た際に大人気の歌舞伎役者・生島新五郎を観に芝居小屋へ入った。さらに、芝居終わりに生島を誘って宴会までした。大奥では厳しく生活を管理されていて、帰宅時間もきっちり決められていたが、そのルールを破ってしまった。これは大問題となり、絵島と生島、芝居小屋の関係者約1500人が処罰される大騒動になった。
絵島は江戸から離れた高遠に流される罰を受けた。絵島は27年間、絵島囲み屋敷で暮らした。常に見張りがいて、衣食住が同じ部屋で完結していた。当時、大奥の女性と役者が隠れて遊ぶことはよくあったが、実は陰謀論がある。当時、幕府内では7代将軍・家継の腹心や母を中心とした派閥と、それに反発する役人たちの2代派閥があった。
当時、大奥には約1000人の女性が働いていてお金がかかり過ぎていた。幕府は財政難で、その一番の原因が大奥だった。この時、吉宗は選りすぐりの美女50人をリストラした。クビにした女性たちに「そなた達の美しさがあれば良縁に恵まれる」と言ったという。キーワード5つ目は「う」、6つ目は「ん」。
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兵庫県加東市の田中千寿さんは4年前、自宅にマッサージサロンを開いた。週に数回の幸せ時間はボルダリングだ。9年前にテレビ番組で見てやってみたくなった。忙しくてジムへ行けないことが続くと、体を動かしたくてたまらなくなるという。