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「森口博子」 に関するテレビ情報

2017年3月17日放送 19:00 - 19:56 TBS
爆報!THE フライデー あの人は今…大追跡SP

森昌子の子育て本がベストセラーとなり話題を集めるなか、子育ての過ちで苦しんだシングルマザー芸能人がいた。それが元アイドルの小川真澄、20頃の頃はコント番組「志村けんのだいじょうぶだぁ」にレギュラー出演、バラドルとして活躍した。1993年に所属していたパンプキンが解散、芸能界から姿をけした。
小川真澄は現在44歳、2度の離婚、3人の娘を抱え壮絶な子育てに直面している。タイヤ販売所の経理として働き、WEBページを作成する仕事も請け負っている。次女・凛佳さん(17)には知的障害があり人とのコミュニケーションが苦手、物事の判断が上手くできずパニックに陥る事もある。養護学校に通い、漢字の書き取りや掛け算などを学んでいる。生まれつき障がいがあったわけではなく、原因は小川真澄にあった。
小川真澄は1993年、21歳で芸能界を引退。バイト先で知り合った男性と結婚した。1999年の夏、赤ちゃんだった凛佳さんは39度を超える発熱、病院に行くと風邪だと診断された。ところが夜になっても発熱が治まらず、更に翌朝、病院に連れて行くと髄膜炎にかかっていることが発覚。2歳以下にかかりやすい病気でただの風邪だと勘違いすると最悪の場合は死に至る。緊急入院した凛佳さんは一命をとりとめたが、後遺症で知的障害を患った。髄膜炎は早期治療が必要、小川は翌日ではなく夜に病院に連れていけば後遺症は無かったと悔やんでいる。
凛佳さんの障がいがわかった頃、夫と子育てを巡り対立、2002年に離婚した。34歳で再婚するものの夫の単身赴任をきっかけに上手くいかなくなり、2度目の離婚。子ども3人を養うため、週6日の事務仕事、家では育児と家事に追われた。何より大変なのが凛佳さんの身の回りの世話、そんな日々を10年以上続けている。

他にもこんな番組で紹介されています…

2017年7月24日放送 15:50 - 19:00 日本テレビnews every.カルスポっ!
作曲家で歌手の平尾昌晃さんの突然の訃報に芸能界からも彼を偲ぶ声が上がっている。先程行われた音楽イベントに出席した黒沢年雄さんは「とてもいい方で才能があって、僕は憧れた」と話し、田川寿美さんは「多才な作家の先制が亡くなっていいくのは演歌界でも衝撃」と話した。五木ひろしさんの「よこはま・たそがれ」「夜空」、小柳ルミ子さんの「瀬戸の花嫁」を手掛けた平尾さんは先週金曜日79歳で肺炎のためなくなった。きのう五木ひろしさんは「普通の歌い手さんの何十倍の歌を自分は作っていただいたので、そういう意味ではすべてをもらった感じがする。自分の中ではメロディーが残っているので、これからもずっと歌い続けていきたい。もらった作品を自分が元気な限り歌っていきたい」と話した。1978年に大ヒットした「カナダからの手紙」をデュエットし、40年近く親交がある畑中葉子さんは「カナダからの手紙以外にもたくさんの曲があり、そんな平尾さんとご一緒させていただき感謝している。自分は16で父を亡くしているので父のように感じていたので残念だ」とした。ミッキー・カーチスさんらとロカビリー三人男として爆発的な人気を博した平尾さんについて、ミッキーさんは「俺とは違う素晴らしい才能を持っている奴だったね、本当に寂しい」とコメント。平尾さんは歌手としてデビューし、1960年代からは作曲家としても活躍し様々な名曲を生み出した。1972年に瀬戸の花嫁で日本歌謡大賞を受賞した小柳ルミ子さんは「先生の教えを胸に人々の心に響く歌を心を込めて歌って行きたいと思います」とコメント。1973年に草原の輝きで日本レコード大賞新人賞を受賞したアグネス・チャンさんは「昭和を代表する音楽界の星が消えたことはとても寂しく心細い」と話した。また、平尾さんは「必殺仕掛人」「銀河鉄道999」の音楽を担当していた。若手歌手の育成にも力を入れ、1974年に設立された平尾昌晃音楽学校では松田聖子さんや森口博子さんらを送り出した。平尾さんの葬儀告別式は近親者のみで営まれる予定。

2017年7月24日放送 8:00 - 9:55 TBSビビット(ニュース)
昭和のヒットメーカーにして、日本歌謡界の父とも謳われた平尾昌晃さんが亡くなった。79歳だった。息子で歌手・タレントとして活動する平尾勇気さんは、父について「きのうも父の実家にいたが、まだそのままのものが残っていて何一つ動いていなかった。たぶん父も帰ってきたかったんだなと思う」「平尾昌晃という人間を応援してくださった日本全国の皆さまに本当に感謝しています」と複雑な胸の内を明かした。勇気さんは地方での仕事を抱えていたため、父の今際により添えなかったという。
平尾昌晃さんの人生を名曲と共に振り返った。東京・新宿生まれで5人兄弟の末っ子だった平尾さんは1958年に歌手デビューし、1966年に作曲家に転身。ロカビリーや演歌、アニメソング、時代劇「必殺仕事人」のテーマソングに至るまで幅広い分野で名曲を生み出した。また1974年には平尾昌晃音楽学校を立ち上げ、松田聖子さんら多くの有名歌手を輩出。翌年には「白ばらの人」をはじめとした宝塚歌劇団「ベルサイユのばら」の劇中歌を手がけた。このほか「平尾昌晃チャリティーゴルフ」を開催したり、2006年のNHK「紅白歌合戦」ではフィナーレを飾る「蛍の光」の指揮をつとめるなど幅広い活躍をした。その一方で家族とは暖かい関係を築き、とくに歌手活動をしている勇気さんに対しては「音楽を作る上では、誰の耳にも残る、覚えやすい、歌いやすい歌を作ることが大切」とアドバイスをすることもあったという。音楽が苦手で劣等感があった幼少期。正月に親戚が集まりクラシックを披露するも平尾少年はいつも影に隠れていた。当時は落語家、野球中継のアナウンサーになりたかったという。ところが、自宅でのパーティーで米軍の将校がくれたジャズのLPに衝撃を受け、慶応高校1年のときに日本ジャズ学校に入学した。慶応高校の同級生は加山雄三などで、校長はかまやつひろしの父。そして20歳の時にロカビリーバンド3人男を結成し、1週間で4万5000人動員の大人気となった。堀尾正明によると、当時は失神するファンが相次いで、社会問題になったという。ロカビリーバンド3人男の他の2人について、山下敬二郎さんは父は落語家の柳家金語楼さん。ミッキー・カーチスさんはのちに矢沢永吉のキャロルなどをプロデュースしている。1966年、布施明の霧の摩周湖は当初、イメージは夏・海だった。しかし江の島での会議の際に皆で泳ぐことになり、そこで布施さんの水着姿が驚くほど似合わないことに気付き、イメージを湖に急きょ変更した。五木ひろしは、1970年、オーディション番組に出場し見事に10週勝ち抜いたが五木の当時の芸名は三谷謙だった。そこで平尾さんが「これじゃ売れない!」と言ったのがきっかけで改名し大スターになった。瀬戸の花嫁については、1972年、あるとき平尾さんが小柳ルミ子に対し「いくつで結婚したいの?」と聞くと「一生歌手でいたいからお嫁にはいかない」と発言したことから、歌で嫁に出してやろうと瀬戸の花嫁が誕生した。そんな平尾さんが大切にしていたことが「洋楽、邦楽、民謡、童謡、なんでも好き。楽しいものは全部取り入れちゃう」ということ。平尾勇気は「僕が継いで残していきたい」「曲を書いているので聴いてほしかった」などとコメントした。

2017年7月17日放送 11:55 - 13:55 日本テレビヒルナンデス!(報道フロアから最新ニュース)
森口博子さんから大事なお知らせ!

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