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「NHKオンデマンド」 に関するテレビ情報

2017年1月11日放送 23:55 - 0:25 NHK総合
時論公論 (エンディング)

エンディング映像。解説委員室ホームページのURLと、NHKオンデマンドの告知テロップが表示された。

URL: http://www.nhk.or.jp/nhk-ondemand/

他にもこんな番組で紹介されています…

2017年4月24日放送 4:20 - 4:30 NHK総合視点・論点(エンディング)
エンディング映像と次回予告。この番組はNHKオンデマンドでも視聴できる。

2017年4月23日放送 22:57 - 23:00 NHK総合NHKプレマップ(番組宣伝)
いつでもどこでも、見逃しも名作も5000本以上配信しているNHKオンデマンドの告知。スマホ・タブレット・パソコン・テレビで視聴が可能。詳しくはホームページへ。

2017年4月23日放送 10:05 - 10:53 NHK総合明日へ−つなげよう−証言記録 東日本大震災(63)「災害派遣医療チームの格闘」
岩手県大槌町の大槌病院は町の人の拠り所であり、震災当時は53人が入院していた。地震発生から30分後、大槌病院は津波に襲われた。病棟は2階まで水没した。院長の岩田千尋さんは、3階から津波を目撃したときのことを語った。岩田さんら医師は急いで入院患者を屋上へ避難させた。通信手段が失われたため救援要請もとれず、じっとしているしかなかったという。
岩田さんが助けを求めようとしたのは隣の釜石市にある釜石病院。釜石病院は地域の災害拠点病院に指定されている。大槌圏で災害が発生した場合、釜石病院が緊急医療支援を行うことになっている。しかし震災当時はその役割をはたすことですら難しい状況に陥っていた。主な病院が耐震構造でなく余震で倒壊する恐れがあったため、すぐに入院患者を耐震構造の建物に移した。ベッドは足りるはずもなく、患者の多くを廊下に寝かせて看護する他無かった。重症患者が運ばれたり、入院患者の容態が急変しても、対応が難しい状況だった。
全国の医療関係者が支援に動き始めることになり、秋田県の病院に勤務する救急医の奥山さんは、1時間後に看護師3人とともに被災地へ向かう準備を整えた。奥山さんが参加したのは国の災害派遣チームのDMATという団体で、特別な訓練を受けた医師や看護師などが登録している。
DMATが発足するきっかけとなったのは阪神・淡路大震災だった。医療チームがもっと早く派遣されれば500人の命が助かったと言われている。2005年に厚生労働省は全国の病院に呼びかけてDMATを整備。災害現場にはやくかけつけて負傷者を助けることが主な目的とされた。さらに、大量の負傷者が運び込まれる病院への支援も重要な任務となっている。
奥山さんのチームは岩手県への派遣を指示され、直ちに盛岡へ向かった。県は沿岸部が危機的状況と判断し国にDMATの要請を行っていた。災害対策本部のスタッフルームにはDMATの司令塔が置かれた。当時36歳の救急医だった秋冨慎司さんはその中心メンバーだった。秋冨さんはDMAT発足当初から参加し、様々な災害現場や病院で医療支援に携わってきた。その経験と熱意が県に認められ、2008年に災害対策本部に参加することに。災害対策本部に駆け付けた秋冨さんはテレビで目にした岩手・宮古市の津波の映像に言葉を失う。秋冨さんたちはまず被災地の病院がどんな被害を受けたのか状況を把握しようとしたが、沿岸部からはほとんど皆無の状況だった、役場ごと流されているような状況だったという。この時秋冨さんが最も懸念したのは被災地で重症患者の対応が追いつかないこと。そこで以前から準備していた計画を実行することに。重症患者はまず沿岸部にある4つの災害拠点病院が受け入れる。全国から駆け付けたDMATは内陸にある花巻空港に集結し、臨時医療施設を作る。そこから災害拠点病院に向かい患者をヘリコプターで空港へ搬送。内陸部各地の病院に移し治療を行う。秋冨さんはヘリコプターを持つ消防や警察、自衛隊に説明し協力を求めた。
花巻空港にも搬送の拠点が立ち上がる。全国から64チーム350人のDMATが重症患者に備えた。被災2日目の3月12日朝では長野県から派遣のDMATがヘリで沿岸部へ向かった。派遣先の釜石病院を目指すも病院は見当たらず。ヘリが手違いにより病院ではなく津波浸水区域の保育園に降りてしまった。幸いにも保育園に園児とスタッフは高台に避難して無事。DMATは助けを求めている重症患者がいないか探しながら釜石病院を目指す。しかし、がれきの中から見つかったのは遺体だけだった。東日本大震災では犠牲者の9割以上が津波による溺死だった。72時間以内に救える命が多かった阪神淡路大震災とは違い救助に駆け付けた時には既に亡くなっていることがほとんどだった。
DMATスタッフらが向かった釜石病院には他にも7チームのDMATが集まり、運び込まれてくる重症患者を内陸部へ搬送する計画を立てていたが、何時間経っても重症患者はほとんど搬送されてこなかった。一方で釜石病院の石黒さんは別の問題でもDMATの支援を必要としていた。入院患者の内陸への搬送である。このまま病棟も手術室も使えないままでは患者の容態が悪化しても対応しきれないため。しかし、入院患者の搬送を要請した石黒さんの元に県の災害対策本部から連絡が入る。「搬送にヘリを使わないでくださいというか、ヘリのコントロールは県の本部でするのでと言われたんですよね。重症でないとヘリに乗せるなということはないと考えていました」「どうしてそうなっているんだって言われて事情を説明して、こうなんですけどダメなんですかという感じになったかもしれません」など石黒さんは述べた。
その頃の県の災害対策本部では各地からの支援要請が殺到。最も必要とされていたヘリコプターは当初23機だった。防災危機管理監(当時)の越野修三さんは「岩手県っていうのは189キロあるんですね南北。ヘリが23機しかない。とても物理的に無理だ、全部手当てするのは」など話す。秋冨さんは最初の3日間は重症患者を優先すべきと考えていた。釜石病院の石黒さんに入院患者のためヘリを送る余裕はないと伝えた。
秋冨さんはたとえ重症患者が救出できる可能性が低くとも全力で捜索すべきと考えていた。その信念は震災6年前に起きた福知山線脱線事故がきっかけだった。秋冨さんら20の医療チームが現場に駆け付けたが一部の生存者の存在に気づかず多くのチームが引き上げた。秋冨さんはまだ生きている人がいると思って現場に残って対応するも、秋冨さんたちだけでは人手が足りず救命活動は大幅に遅れた。助けられたのは3人だけだった。
津波の直撃を受けた大槌病院は3月12日も孤立状態が続いていた。人工呼吸器の酸素も少なくなり、電気が必要な医療機器も使えない。症状が悪化する患者も増え、医師と看護師はなんとしてでも患者の命を守ろうと懸命だった。午前9時に自衛隊のヘリコプターが到着し、重傷の生存者を救出し始めた。その場所は現場から数分の場所で、院長の岩田さんは入院患者を搬送してほしいと頼んだ。しかしDMATには「重症患者がいない」という情報だけが伝えられ、支援は後回しになった。釜石病院は連絡が取れない大槌病院を気にかけていたが、石黒さんもDMATも釜石病院の患者の対応に追われ、支援に向かえなかった。
DMATに求められる支援の内容は、派遣先の病院によって変化していく。秋田県から派遣されたDMATの奥山さんは、大船市の災害拠点病院で活動中に受け入れ先の病院のリーダーに「医療ニーズは少なくなったのでDMATは3月13日に帰還していい」と言われたという。つまり、重症患者が少なくなったため、DMATの役割は終わったと判断されたのだ。奥山さんがそれまでに搬送した患者はわずか1人だった。
厚生労働省のDMAT事務局は、東日本大震災で阪神・淡路大震災を上回る人的被害が発生すると予想し、1800人以上の医療従事者を派遣した。DMATが思うように役割を果たせていないという報告は信じがたいものだった。派遣期間のタイムリミットも迫っており、発災後27時間をすぎると、人命救助を出来る可能性が極めて低くなるため、DMATの活動期間は3日間とされていた。
3月11日、DMATが撤収を開始した。しかし大槌病院は一層深刻な事態に陥っていた。電気も酸素もなくなり、人工呼吸器も止まった人が亡くなってしまった。津波の直撃を受けた病棟は、いつ倒壊するかわからない。岩田さんは、これ以上病院にいさせては患者の命を守ることは出来ないと判断し、自力で病院を脱出することを決めた。入院患者も助け合いながら、動けない人を車椅子などに乗せて避難所になっている高校に運び出した。秋冨さんは、大槌病院の入院患者の脱出を、高校患者の連絡で初めて知った。そして、津波による医療現場の崩壊が、自分の予想を遥かに上回っていたと悟った。大槌病院と同じ状況になっている病院が他にもあるのではないかと、秋富さんがとりわけ危惧したのは医師も看護師もいない避難所だった。そこで東京の事務局に依頼し、追加のDMATを派遣するよう呼びかけた。秋富さんからの度重なる要請を受け、DMAT事務局は異例の活動期間の延長をし、追加のチームを派遣した。被災地の様子をよく調べるよう現場に指示を出した。
大船渡市からの撤収を始めようとしていた奥山学さんにも、方針転換が告げられた。避難所の状況が不明なので、DMATで手分けをして、調査をしてほしいという依頼があったという。末崎地区が孤立し医師がいない状況。奥山さんたちは末崎地区を目指した。山越えのルートを辿った。家屋の4割が被災し、幹線道路も寸断されている。多くの人は、末崎地区公民館に避難していた。大勢の人が集まってきて、脳卒中や肺炎、心筋梗塞などのリスクが高まっていた。ただちに処置しなければ命に関わる状態の人もいて、大船渡病院まで搬送をした。患者は一命をとりとめた。常備薬を失った人への対応も急がれた。すぐに薬を飲んでもらわないと危ないと思ったと奥山さん。公民館の館長だった近藤さんは、DMATの活動に救われたという。この地区には医師がいなかったという。ありがたかったと語った。
岩手県災害対策本部は、生存者捜索の終了を宣言した。犠牲者はおよそ2万人。そのうちの3500人は避難生活の体調悪化などの災害関連死だ。DMATは3月22日まで追加のチームを送った。従来の態勢に大きな欠陥があったことが認識されたと小井土雄一局長はいう。慢性疾患の増悪とか感染症とか、先読みできていればよかった。本来は必要だったという。防衛医科大学の秋冨さんは、震災で得られた教訓を人々に伝えている。
そして、後方支援を担う災害対策本部も改革したいと考えている。災害拠点病院すら被害で機能不全となり、それをカバーしなければいけなかったと反省しているという。首都直下とか、南海トラフ巨大地震などが起きたときにそなえるべきだという。国内の災害準備をしてほしいと思っていると語る。それが亡くなった人たちへの供養だと思う。震災後、DMATの制度は大きく改善された。慢性期の患者も支援対象に加え、あらゆる医療ニーズに対応することが、任務として定められた。72時間の活動時間の制限も取り払われた。災害医療に携わる医師たちの模索は続く。

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