映像の世紀バタフライエフェクト (映像の世紀 バタフライエフェクト)
明治の中頃に歌舞伎は黄金時代を迎えた。当時は九代目 市川團十郎や五代目 尾上菊五郎ら名優が舞台を沸かせていたという。当時の女形は付き従うというのが一般的だったという。それを変えたのが五代目 中村歌右衛門だという。中村歌右衛門は女性を主役にした新たな演目を生み出して女形の地位を押し上げたという。そんな五代目 中村歌右衛門は1940年に死去した。息子の藤雄は父親の後ろ盾がなくなり、孤独の中で女形の芸を磨き続けた。そんな藤雄を大谷廣太郎は慕っており家族ぐるみでの付き合いがあったという。
1937年に日中戦争が勃発すると歌舞伎俳優たちも戦争に巻き込まれていった。大谷廣太郎も戦場に送られて、歌舞伎も戦意高揚に使われるようになった。藤雄は徴兵検査で兵役免除になり、日本各地で慰問公演を行った。1945年になると本土への攻撃も激しくなり歌舞伎座も焼失した。そして終戦を迎えた。GHQは封建的で民主化の妨げになるということで多くの歌舞伎の演目を上演禁止にした。ただその方針に反対したのがフォービアン・バワーズだ。規制は2年後に解除されて、バワーズは歌舞伎を救ったアメリカ人と呼ばれているという。
藤雄も舞台に上がる日々を再開した。藤雄は普段から仕草が男性的にならないように気を配っており、その後を追いかけていたのが大谷廣太郎だった。大谷廣太郎は七代目 大谷友右衛門を襲名して女形をやっていった。1951年に歌舞伎座が復活し、そこで藤雄が六代目 中村歌右衛門を襲名した。ただ大谷友右衛門は仕事がないことから映画の仕事をするようになり、歌舞伎の世界から去っていった。
六代目 中村歌右衛門は人気絶頂になり、そんな中村歌右衛門に三島由紀夫は魅せられたという。三島由紀夫は歌舞伎の新作の執筆も行い大好評だったという。歌右衛門は海外公演も行い世界の著名人たちを魅了した。1968年には重要無形文化財保持者に認定されて人間国宝になった。そうした中で女形にも新たに五代目 坂東玉三郎というスターが誕生した。坂東玉三郎は一般家庭出身で、そこまでには苦労もあったという。
1978年に五代目 坂東玉三郎は代表作になる作品と出会うことになる。一方で60歳を越えた六代目 中村歌右衛門は老いた自分を隠さずにさらに芸を深めていった。ただケガや体調不良で舞台を休むことも増えていった。しかしその不在を埋めるように四代目 中村雀右衛門など女役の大役をこなす人もでてきた。それは七代目 大谷友右衛門だったという。その後、2001年に六代目 中村歌右衛門は死去した。女形の大名跡の中村歌右衛門は今もその名前は空白のままだという。女形は四代目 中村雀右衛門がけん引して89歳まで舞台に立ち続けたという。そして四代目 中村雀右衛門は2012年に死去した。その後は五代目 坂東玉三郎が人間国宝になっている。
