- 出演者
- 村上龍 小池栄子
オープニング映像。
東京・吉祥寺に行列のできる飲食店が。ここはステーキを提供している店で、サーロインステーキやロースなどリーズナブルでお肉が楽しめる。看板メニューは客の半分以上選ぶミスジステーキ。ミスジは牛一頭から少量でしかとれない肩甲骨周りの希少部位。赤身だが程よい脂と旨味が特徴の赤身肉で肉の旨味が味わえる。サラダやご飯はおかわり自由で、七穀米やスープがついていて食べ放題に。
いきなり!ステーキは2013年に誕生し一時は一世風靡をしたステーキチェーン。しかしここ数年で牛肉の価格が高騰し、ステーキ業界全体が低迷。いきなり!ステーキを始めとする多くのステーキチェーンは軒並み店舗を減らしている。しかしいきなり!ステーキのパクリとも揶揄されるやっぱりステーキはコロナ禍でも店舗数を拡大しここ三年で1.5倍に増やし、一人勝ち状態になっているという。その美味しさの秘密にはまず素材へのこだわり。主力商品のミスジは業界に先駆けやっぱりステーキが使い始めた。この肉は難点の箇所に筋が多く取り除くのに手間がかかるという。取り除いた筋はカレーや煮込みなどに使用している。またやっぱりステーキが使用しているものは鉄板ではなく、特性プレート、富士山の溶岩石を使用しており、ともに255度まで熱した鉄板と比べてみると火を消して10分経過しても鉄板は104度まで下がったが富士山の溶岩プレートは179度に。またテーブルの上には豊富な調味料がある。
やっぱりステーキの創業地は沖縄で、街の中にはたくさんのステーキハウスがしのぎを削っている。沖縄県は人口あたりのステーキ店が最も多いステーキ王国。その沖縄でやっぱりステーキは店舗数堂々第一位に。沖縄の店舗を覗くと家族連れを中心にあらゆる世代がやってくる。
やっぱりステーキの沖縄店では深夜にもお客がやってくる。お客はほとんどがはしご客だという。店を手掛けたのはディーズプランニングの義元大蔵。義元がやっぱりステーキを始めたのは2015年のことで、その時からの基本戦略は、ステーキを日常食にしたいという思い。1000円という値段にはこだわりがありコストを徹底的に削減している。人件費を抑えるために採用したのは焼き上げをお客に任せるシステム。レアで提供し冷めにくい溶岩プレートで肉の焼き加減を自分で調整。このやり方なら調理スタッフは1人でOK。さらに義元が1人みているのは家賃。飲食店が家賃にかけられるのは売上の10%。やっぱりステーキでは売上に対しての5%で大通りから外れた路地裏の物件や、周囲に店のない立地の安い物件を選ぶ。また殆どが居抜き物件で初期投資を抑えている。吉祥寺店は以前は洋風居酒屋だったが、構造をいかしながらコストを抑えステーキ店にかえた。しかし家賃が安いだけではだめで店が流行る場所かを独自の視点をもっている。吉祥寺店の立地は住宅街の中心にある。ここを選んだ理由に義元はここを歩く人のスピードがゆっくりだからだという。このことで店が目に留まりやすいと判断した。やっぱりステーキは全国で87店舗に。一年目は一億円だった売上は7年で50倍に伸びた。
義元は沖縄ではステーキ屋が多く、24時間営業の喫茶店にステーキがあると答えた。そしてやっぱりステーキの主力商品はミスジのステーキ。義元はミスジにした理由には8年前に創業するにあたり、赤身肉で珍しい肉を探していた時に出会ったのがミスジだったという。さらにその当時はミスジはマイナーな部位でどの焼肉店にもなかったという。しかし食べたら美味しかったと答えた。さらに毎日ステーキを食べる文化を作りたかったと語りそのリーズナブルな価格で男性が食べるものというイメージが強かったステーキでも最近は1人で食べる女性客が増えたと答えた。またレアの状態でお客に提供し、お客に焼き上げてもらうという仕組みについては、他の店ではレアと言ってもミディアムやウェルダンで出てくるところもあると語り、自分が思うレアとお客の思うレアは違うのでお客に委ねることにしたという。
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1975年に義元はサラリーマンの父と薬剤師の母のもとで沖縄県那覇市に生まれた。高校に進むと大学進学よりもやってみたいことができたという。たまたまみた映画トップガンに憧れて1993年にアメリカのロサンゼルスになんのあてもないまま渡米した。語学学校に通いながら皿洗いのアルバイトに励む日々。生活は厳しく10キロも痩せた。しかし持ち前の積極性で状況を変化させ、ウェイターになると客の好みを覚えてチップを弾んでももらい、最後はマネージャーに昇格した売上も伸ばした。アメリカで独立するのも夢ではないと思った矢先、2001年にアメリカ同時多発テロが勃発。これにより帰国を決意した義元は、地元沖縄で様々な事業を手掛ける大手企業に就職した。アメリカでの経験をいかして飲食コンサルタントとして働いた。しかし、アメリカに長らくいたせいか感覚にズレがあり煙たがられていたという。仕事の出来ない人は育てるのではなくすクビにし、次第に孤立していくようになった。それでもやり方は変えずに業績をあげることに徹した義元は、グループ会社の様々な仕事で結果を出し続けた。気がつけば40歳になっていて、ずっと温めてきた構想を実行に移すことに。当時のステーキ価格は高値だったと答え1000円札一枚でステーキをたくさん食べられる店を実現したいと思ったという。そのためには家賃に低い物件が必要だったが掘り出し物がでてきたという。そこはわずか三坪にカウンター6席だけの店。席の後ろを通行人が通っていくような状況だった。ここは飲食ビルの通路の一角にあった。
義元は最初に作ったやっぱりステーキ一号店を残していてミュージアムのようになっているという。その場所は廊下なので夏は暑く冬は寒いと言った状況で換気が悪くスプリンクラーが作動してしまったという。こんな状況でも自信があったという義元。1号店は6席しかなかったので満席にできるがその回転率だけを考えていたという。
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義元が最初に作ったやっぱりステーキ一号店はステーキを手頃な価格た食べられ、さらに変な場所にあると口コミで話題になった。行列ができ、月に280万円を売り上げる大成功となった、半年後には二号店をオープンし、さらにブレイクした。今度は24席の店だったが一日に900人近くが押し寄せた。義元自身も毎日20時間店に立って死物狂いで働いた。しかし当初義元は皆で働こうという気概がなかったという。しかしそれを変える出来事があった。ある日の深夜、義元は一時間の休憩を取ろうと自分の車の中で仮眠を取ることにした。しかし目が覚めたのは朝7時半。すでに閉店時間も過ぎていた。その時の従業員は「自分たちでできるので休んでください」と声をかけられたというが当時一緒に働いていた従業員は自分たちを頼ってほしいという意味合いだったという。義元はその一言に報われたと思ったと答え自分がいなくてもできるようになったと感じたという。その頃は一日に800人以上は来ていたという。
義元はやっぱりステーキを作り上げていく上でどう変わったのか?それがわかったのは新規オープン店舗のアルバイト研修で見えた、本番を想定し、接客の研修が行なわれた。接客が初めてというアルバイトが戸惑っていたが義元は優しく声をかけた。働く人を大事にしようと向き合うようになったという。しかし三年前に義元の人生に転機が訪れた。
義元は三年前にガンを宣告されたという。義元は歯が悪くなったと思ったが実はガンだったと答え、店も上り調子のときだったのでショックが大きかったという。その経験を踏まえ一番変わったと思うことには時間の使い方と答え10年後より今をみないと意味がないと答えた。
愛媛県今治市にきていた義元。やっぱりステーキは全国に87店舗あるがその7割はフランチャイズ。その募集は行っていないのにもかかわらず、やらせてほしいというオーナーが後を絶たない。数あるフランチャイズの中には他とは違う店も。
やっぱりステーキのフランチャイズはネパールにも。店のオーナーは日本のやっぱりステーキで立ち上げのときから働いていたネパール人のマニさん。熱意を認めた義元は加盟を承認しこれが海外初出店に。富士山の溶岩プレートなど、様々な道具を日本から提供し、店舗のデザイン制作にも協力した。ネパールで出すのは山羊肉。ネパール人の8割はヒンドゥー教では牛を食べず、溶岩プレートで焼くスタイルのままメニューをアレンジした。義元はネパールの出店についてたまたま出したいと言った人がネパール人だったからだという。海外でもやっていきたいとは思っていたという。しかしネパールの店舗は辺鄙な場所にあると答えたがそれでもチャレンジしていきたいと答えた。
日本のステーキを業界は難しい局面に直面している。仕入先との交渉をしていた義元だったが、今年になって食用の牛の数が世界的に減っている。
世界的な牛肉の高騰を受けて義元はラウンドオイスターという新たな希少部位も面白いとあらたな赤身肉を店で提供したいと前向きに交渉した。
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村上は今日の総括に1号店は2015年、沖縄・那覇で3坪6席で。赤身肉のステーキを200グラムを1000円で提供。大ヒットして月商280万円を売上。2号店は20坪24席、週6日朝11時から翌朝まで営業、1日37回転という記録を。現在は沖縄県内に24店舗、県外に63店舗、東京店は51号で直営。なぜこれほど受けたのか。安くておいしいからだ、ステーキの店でそれはむずかしい。「やっぱりステーキ」は革命的だ。寿司で回転寿司がやったことをやった。義元さんに「あなたは革命家です」と言ったが、わからなかったようだ。とした。
カンブリア宮殿の番組宣伝。