- 出演者
- 富澤たけし(サンドウィッチマン) 中居正広 伊達みきお(サンドウィッチマン) 長島三奈 太田幸司 荒木大輔 伊集院光 前田裕太(ティモンディ) 高岸宏行(ティモンディ) 小坂菜緒(日向坂46) 松坂大輔
1980-90年代の第5位は名古屋電気・工藤公康。1981年の夏の甲子園ではカーブを武器にノーヒットノーランを達成した。
1980-90年代の第5位は横浜・松坂大輔。スタジオに松坂が登場した。当時の松坂を長島三奈が取材し、キャッチボールしていた。1998年の夏の甲子園準々決勝PL学園戦では250球を投げぬいた。準決勝では明徳義塾戦に逆転勝利、決勝で京都成章に勝利した。スタジオで松坂はVRで再現した当時のボールのバッティングに挑戦した。
1979年以前の第7位は熊本工・川上哲治。1937年に甲子園に出場。生前に親交があった岡本さんは優秀なピッチャーでなおかつバッティングが素晴らしかった、二刀流の元祖だと話した。
1979年以前の第5位は東海大相模・原辰徳。1年生からクリーンナップを任され、夏の甲子園通算37打席15安打で打率.405。球場には女性ファンが殺到した。1年生のときの準々決勝、定岡正二の鹿児島実業戦は視聴率33.1%を記録。延長14回でテレビ中継が終了した。テレビ局に問い合わせが殺到し、翌年から最後まで中継が行われるようになった。
1979年以前の第4位は三沢・太田幸司。甲子園の元祖アイドルと呼ばれ、甲子園が女性ファンで溢れかえった。1969年の夏の甲子園、松山商との決勝では史上初の引き分け再試合に。太田は2日間で384球を投げ抜くも敗退した。
スタジオに太田幸司が登場。ドラフト1位で近鉄に入団すると1年目1勝でファン投票1位、2年目0勝でファン投票1位だったと話した。人気にまつわる伝説を直撃した。「本拠地に女性用トイレを増設した」は本当。「寮の部屋に見知らぬ女性が入り込んでいた」は本当。あの頃は24時間玄関がフルオープンだった、部屋のベッドに座っていたと話した。太田は甲子園は人生そのものと話した。
2000年代の第3位は東北・ダルビッシュ有。2年生エースとして臨んだ2003年の夏の甲子園決勝では常総学院に敗れ準優勝となった。ダルビッシュは最後に3年生を優勝させたかったと語った。2004年の夏の甲子園は3回戦で敗れた。長島三奈は当時ダルビッシュを取材していた。ダルビッシュは思っていた以上のことを存分にできた、悔しさはまったくないと語っていた。
2000年代の第2位は駒大苫小牧・田中将大。駒大苫小牧は優勝すれば3連覇だった2006年の夏の甲子園で優勝決勝で敗れた。田中は当時について決勝の時はヒール役の感じだったと話した。
2000年代の第1位は花巻東・大谷翔平。2011年の夏の甲子園1回戦、大谷は左股関節に故障を抱えていたがマウンドに上がり当時2年生甲子園最速タイとなる150キロをマークした。試合は7-8で敗れた。4か月後に長島三奈が当時の大谷を取材。大谷は160キロを投げたいと話していた。その日の反省やあすへの決意などを日誌に書いていた。大谷は2012年の夏の甲子園で160キロを投げた。スタジオでは大谷が高校時代に書いた人生設計シートを紹介。18歳ドジャース入団、23歳WBC日本代表、25歳世界最速175キロ等と書かれていた。
1979年以前の第3位は徳島商・板東英二。1958年の夏の甲子園で1大会での最多奪三振記録83をマークした。春季四国大会では延長16回を完投し、2日後の試合でも延長25回を完投した。これをきっかけに高野連は延長は18回までと決めて延長引き分け再試合のルールができた。
1979年以前の第2位は早稲田実・王貞治。1957年の夏の甲子園2回戦で王は9回までノーヒットに抑えるも延長戦へ。11回表に早稲田実業が逆転、王は延長11回ノーヒットノーランを達成した。
1979年以前の第1位は作新学院・江川卓。3年の春夏2回甲子園に出場。合わせて6試合で92の三振を奪った。14.0の奪三振率は圧倒的な1位で未だに破られていない。栃木大会では打たれたのは5試合通して2本。高校時代は完全試合2回、ノーヒットノーラン7回。
1979年以前の第1位は作新学院・江川卓。当時甲子園で対戦した江川と柳川商業OBに話を聞いた。高めの球はホップしていた、球が視界から消える感じがしたと話した。
1980-90年代の第3位はPL学園・清原和博。甲子園通算ホームラン数13本の記録の裏側を当時の監督・中村順司が語った。3年生の春、準決勝で敗退し、負けたあとにミーティングし、30~40分後にピッチングマシンを最速にして猛練習していたという。チーム練習が終わってからも夜中まで自主練をしていた。1985年の夏の甲子園決勝で13本目のホームランを打った。
1980-90年代の第3位はPL学園・桑田真澄。1年生で臨んだ1983年の夏の甲子園準決勝でホームランを打った。ピッチャーとしてもダブルプレーを量産し7-0で完封勝利した。
1980-90年代の第1位は星稜・松井秀喜。松井は1992年の夏の甲子園2回戦で5打席連続敬遠された。本人に当時の心境を聞いた。3打席目は1アウトランナー1塁にもかかわらず敬遠されたのでもしかしたら今日は勝負ないかなと思ったと話した。試合は前の打者がスリーベースを打ちホームランが出れば逆転の場面で松井の5打席目も敬遠された。松井は5回敬遠されたことによって存在が知られた、プロ野球でもそれだけのバッターなんだと証明しなければいけないという気持ちがあったと話した。
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