- 出演者
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「おやつチャレンジ」の映像。
「姉弟そろって痛~い」の映像。
「姉弟そろって痛~い」の映像。
「子犬を助ける優しいベイビー」の映像。
「赤ちゃんと遊ぶ大型犬」の映像。
「ママ大好き♡おしゃぶり猫」の映像。
「子猫を救出!ママ猫と再会の瞬間」の映像。
「しつけに厳しい!?教育犬」の映像。
「おやすみ♡読み聞かせ少女」の映像。
「行方不明の愛犬が見つかった2年ぶり!子ども達と感動の再会」の映像。
忠犬ハチ公の真相を解き明かす。
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- 忠犬ハチ公像
駅で飼い主を待ち続けたハチは当時、渋谷の大スターだった。ハチの告別式には約3000人が集まった。お経を読んだ僧侶16人、電報約180通、花輪も20以上。森永製菓からはハチをモチーフにしたハチ公チョコレートが発売。ポリドールレコードからは忠犬ハチ公レコードがリリース。さらに、渋谷駅前の商店ではハチ公まんじゅうにハチ公せんべいなど次々と商品化。
無名だった頃のハチは渋谷駅でイジメられることも。当時は野犬が多く、駆除されていた。ハチは野犬と勘違いされひどい扱いを受けることもあった。ハチは非常におとなしい性格で、盗人に胴輪が度々盗まれた。
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- 渋谷駅白根記念渋谷区郷土博物館・文学館
ハチが渋谷駅で主人を待ち始めて数年ほどが経った時、朝日新聞に掲載された。記事を読んでハチを一目見ようと人々が渋谷駅に殺到。おとなしい性格のハチは子どもたちからも人気を集める。当時の渋谷は田舎町だった。ハチの人気で全国的に渋谷という名が知られ、街も発展していくことになった。
ハチが病に冒され命はそう長くないとわかった。病名は犬の多くが当時発症していた犬フィラリア症。生きているうちに銅像を建ててあげたいと皆が願った。銅像建立のため募金による資金集めが行われた。資金集めでチャリティイベントも開かれた。1日でイマの約800万円が集まった。チャリティイベントから1か月後、渋谷駅にハチ公像が完成した。除幕式の映像に生きているハチ公の映像が捉えられた。ハチは病から奇跡的に回復した。この映像は当時、アメリカでニュースとして流れた。ハチは本物のハチ役で映画に出演もしていた。
太平洋戦争が勃発し、全国各地から寺の鐘や鉄製の看板、ポスト、家庭の鍋まで徴収され軍需産業などに使用された。銅で作られたハチ公像も回収された。終戦から3年が経った頃、彫刻家の父・照を戦災で失った安藤士は2代目ハチ公像の制作を開始。除幕式は半年後の終戦記念日に決めた。終戦してもなお、原料の銅が見つからない。亡き父の代表作を溶かしハチ公像を作ると決意した。
日本犬保存会会長の斎藤弘吉は渋谷駅で飼い主を待つハチを発見。昭和初期、純粋な日本犬は絶滅の危機にあった。斎藤はハチのことを気にかけていた。ハチをスターにした新聞記事は斎藤が記者にネタを提案した。斎藤はハチをスターにするため驚きのプロデュースを仕掛ける。
斎藤弘吉はハチをスターした新聞記事の仕掛け人。初代銅像の募金もプロデュースした。大手企業などとも交流があった斎藤のもとには大口の募金志願がたくさん舞い込んでいた。斎藤は小学の募金をたくさんの人から集めてこそ愛されるハチ公像になると考えた。
ハチの飼い主、上野英三郎は東京帝国大学農学部の教授で、農業土木を近代化に導いた第一人者。田んぼの区画整理を行い用水路を普及させ、米の生産を安定化した。上野教授は西洋犬を飼う愛犬家として知られていた。上野教授には秋田犬を立派な成犬に育てたいという思いがあった。関東大震災の翌年、教え子から生後2カ月の秋田犬を列車で送ってもらったが、子犬は衰弱しきっていた。当時、日本に動物病院はなく、自分の布団に寝かせ看病した。病弱だったハチは大事に育てられた。ハチと出会って半年ほど経つと、仕事帰りの上野教授を渋谷駅まで迎えに行くのがハチの日課になっていた。そんなある日、上野教授は脳出血で急死した。ハチと出会って1年4カ月後のことだった。内縁の妻だった八重子夫人は遺産を相続できず、自宅も人手に渡った。そのため、ハチは親戚に預けられたが、親戚は犬の扱いがわからなかった。親戚の家を転々としたハチだった。上野教授の死去から2年後、八重子夫人は生活が落ち着きハチを呼び戻した。
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2024年8月6日(19:00)