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広島市の原爆ドームに中間淳太の姿があった。その近くでお好み焼き店を営む梶山敏子さんは、4歳で原爆孤児となった経験を持つ。
オープニング映像。
中間淳太は広島平和記念資料館を訪れた後、15歳で原爆を体験した切明千枝子さんの元へ。資料館に「校庭で友人を焼いた絵」が残されている。忘れようとしても蘇るというあの日、対岸を見ると黒い煙と炎で火の海になった。広島での原爆犠牲者は約14万人、やせ細った友人を焼いて見送り、生き残ってしまった後悔を胸に抱え、切明さんは「しっかり平和を守ってほしい」と訴えた。
岐阜県池田町を訪れた菊池風磨。満蒙開拓団として満州に渡った北村栄美さんは、豊かになると信じて懸命に開拓・開墾に取り組んだがソ連の宣戦布告によって状況は悪化。父が動員されて終戦を迎え、北村さん家族は日本の防衛ラインから外れていたため、ソ連兵に襲われぬよう生きた。それでも妹を亡くし、墓前で泣き崩れていた母の姿が忘れられない。
北村栄美さんは、亡くなった家族の名前が書かれた小さな石を大切に保管している。動員された父、栄養失調で旅立った妹、そして中国残留孤児として生き別れになった弟。自分は侵略者だったのかもしれないと話す北村さんは、夢で家族と再会することがあるという。
戦争が終わってマッカーサーが日本に降り立つと、女性に危害を加える進駐軍の問題が表面化。全国に慰安施設・RAAを設ける事となり、日本人女性の苦難は続いた。米兵の父を持つとうや米子さんは母親から引き離され、エリザベス・サンダース・ホームに預けられた。「敵兵の子」は母親と会うこともままならず、再会したのは30年以上が経過してから。とうやさんは、私も母も戦争に踏み切った国の被害者と話した。
人間魚雷「回天」の記念館を訪れている中間淳太の目に、特攻隊員の手紙が映った。21歳で生涯を終えた少尉は「両親の幸福の条件の中から私を除いてください」と綴っていた。國田公義さんは「早く死ぬのが忠義とは限らない」との母の言葉を教えてくれた。