- 出演者
- 日村勇紀(バナナマン) 設楽統(バナナマン) 岸本理沙 三谷幸喜 宇野実彩子(AAA)
トラックに引っ張られた電線にあたって少女が宙を舞うメキシコの映像。
- キーワード
- メキシコ
海底火山のある海上一面に軽石が浮かぶトンガの映像。1年後に3000キロ離れたオーストラリアの東海岸まで漂着した。日本でも2021年8月に小笠原諸島付近で発生した。
コップの水が蛇口に吸い込まれるベラルーシの映像。
- キーワード
- ベラルーシ
コップの水が蛇口に吸い込まれる映像。地上にあるタンクから水を押し上げ水道管を通して上の階に送られていたが、水道管の一部が破裂したため配管内の圧力が低下し水が逆流を起こした。
霧に囲まれた山で撮影者の影が動くイギリスの映像。自分の正面にある霧や雲に映った影の周りに光の輪が見られるブロッケン現象だった。条件が合えば日本でも見られる。
靴が勝手に動く中国の映像。
- キーワード
- 中国
「ホンマでっか!?TV」「新宿野戦病院」「週刊ナイナイミュージック」の番組宣伝。
水浸しの床で靴が動く映像。
足踏みをするとブヨブヨと地面が波打つアラスカ山中の映像。地表の乾いた土と深いところに溶け残った凍土との間の土に水が溜まり、ブヨブヨした地面になると考えられている。
- キーワード
- アラスカ(アメリカ)
三谷は「謎は解決を先延ばしにしたほうがおもしろい」とミステリー作品の極意について語った。
岩石のエキスパート、関西学院大学の下岡さんがアメリカで奇岩を調査。サウスダコタ州のマウントラシュモアは約400人の作業員が14年間で掘り上げ、アメリカの発展をたたえた。下岡さんはロズウェル事件で有名になったエイリアンゆかりのニューメキシコ州アルバカーキを訪れた。携帯の電波も届かない乾燥地帯にSF映画のセットのような不思議な岩が林立していた。下岡さんはエイリアンの玉座と呼ばれるアート作品のような岩について、下岡さんは砂や泥が堆積してできた岩が隆起して地上に現れ柱部分の柔らかい地層が上にのった一枚岩の形に沿って雨で削られたと推測した。柱部分は硬い部分と弱い部分で交互に積み重なっており、硬い部分は削れ残り弱い部分はくびれていた。
下岡さんはワイオミング州の平原地帯にある奇岩「悪魔の塔」を調査。帰宅途中にクマから逃げていた7人姉妹が神に祈り、足元から岩が隆起し助かったという伝説が残っている。タワーの側面にはクマの爪痕が残っている。先住民族がクマの塔と呼んでいたのをアメリカ軍人が聞き間違え、悪魔の塔と呼ばれるようになった。
- キーワード
- ワイオミング州(アメリカ)
下岡さんが奇岩「デビルスタワー」を調査。高さは264mで、頂上部分は東西に61m、南北に122m。伝説に登場したクマの引っかき傷のような縦縞が側面に入っていた。縦縞の断面は六角形だった。
- キーワード
- デビルスタワー
下岡さんが奇岩「デビルスタワー」を調査。火山岩でできており、割れ目は六角形になりやすい。柱状節理と呼ばれ、クマが引っ掻いたように見える。2億年以上前、一帯は海に面した場所だった。そこに風や水によって運ばれた砂や泥が積もり、堆積岩が広大に広がった。その後1億5000万年以上の時が流れ、デビルスタワーを構成するマグマが堆積岩の中に貫入。その後冷えて固まり大きな岩になった。他の堆積岩より硬かったため周囲が削られ、巨大な岩が残った。柱状節理が生み出す芸術的絶景はほかにも。イギリス・ブッシュミルズにある世界遺産「ジャイアンツ・コーズウェー」は柱状節理でできた石畳の上を歩くことができる。宮崎・高千穂峡では火砕流が冷え固まって川に削られ、V字渓谷となった。兵庫県の玄武洞は縦横2種類の柱状節理を同時に鑑賞できる。
4年前、111歳で大往生を遂げた高木波恵さんは90年前に海外で教師をしていたが、太平洋戦争が勃発し日本への帰国を余儀なくされた。その後熊本で子育てしながら農業を行い、病気がちになった。9年前に当時級長をしていた生徒・漢宗さん宛てに手紙を書いたが、昔の住所しかわからず台湾の郵便局で宛先不明として仕分けられた。宛先不明の場合は規則により日本に送り返される予定だったが、大事な手紙ではないかと感じた局員たちはなんとか届けようと試みた。役所の戸籍係に現住所を問い合わせたが個人情報保護を理由に断られ、インターネットにも有益な情報はなかった。郵便局長に規則を守れと注意されながらも、郵便局員たちは業務の合間をぬって聞き込みによる住所探しを続けた。
郵便局員は生徒・漢宗さんの息子の住所を突き止め、波恵さんが書いた手紙を届けることができた。現代の台湾の郵便局員が「海角七号」という日本統治時代の住所を頼りに手紙を送り届ける映画「海角七号君想う、国境の南」と類似点が多かったことに興奮した孫娘がSNSに投稿すると大きな反響を呼んだ。手紙の内容に感動した郵便局員は手紙の存在が多くの生徒に知れ渡るように願い、報道機関の友人に連絡。台湾のメディアで取り上げられると、波恵さんが書いた手紙は台湾の人たちの心を揺さぶった。手紙を出した1か月半後、生徒の息子からの返信が届いた。
波恵さんが手紙を出した1か月半後、教え子・漢宗さんの息子・本容さんからの返信が届いた。病院の介護センターに入院していた漢宗さんは90歳近いが存命で、波恵さんのことを覚えていたという。封筒の中には教え子たちからの手紙や写真が10枚以上入っていた。本容さんは昔の住所を頼りに教え子を探し、かつての生徒たちに波恵さんが書いた手紙を見せていた。恩師の手紙に感激した生徒たちは波恵さんへの返事を書いた。教え子の多くは高齢のため他界していた。