2023年9月23日放送 6:10 - 6:53 NHK総合

日本人は農なき国を望むのか〜農民作家・山下惣一の生涯〜

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(オープニング)
オープニング

世界の食糧庫と言われるウクライナでの戦争は多くの国々の食料事情に深刻な影響を与えている。食料自給率38%の日本。国は海外から十分な食料を輸入できるか危機感を強めている。農民作家・山下惣一さんは50冊以上の書物を表し農村の厳しい現実や希望などを発信し続けてきた。山下さんの名を知らしめたのは「減反神社」。農村の混乱を描き高い評価を得た。80年代になると農産物の輸入自由化が叫ばれアメリカとの間で牛肉やオレンジなどの自由化交渉が進む。みかん農家の山下さんは度々、討論番組に出演した。90年代になると地元に農産物直営所を開き消費者とつながることに活路を見出していく。地産地消の大切さを社会に訴えかけてきた。世界の農民とも交流し、やがて家族を中心に持続可能な農業に未来への希望を抱くようになる。

キーワード
山下惣一減反神社直木三十五賞農林水産省
(日本人は農なき国を望むのか〜農民作家・山下惣一の生涯〜)
農民作家 山下惣一の生涯

山下惣一さんは1936年に佐賀県唐津市の湊地区生まれ。農家の6代目として生まれ幼い頃から田んぼや畑の仕事を手伝ったという。当時は自給自足型の農業だった。中学生になり、農村の暮らしに強い反発を感じるようになる。生徒会長を務め成績も良かった山下さんは高校への進学を強く希望していた。しかし父は許さなかった。進学を断念後、2度の家出を経験したが家に戻りしぶしぶ農家を継ぐことになる。この頃、戦後復興を成し遂げた日本は輝いていた。1960年、所得倍増計画を発表する。経済は成長しサラリーマンの収入も増加し農家との格差は開くばかり。1961年、農業を近代化し農家所得の向上を図る農業基本法が制定される。新たなスローガンとして選択的拡大が掲げられた。自給自足型農業を辞め換金作物を選択し規模を拡大し利益をあげるもの。機械化を進め、化学肥料や農薬を使用し収穫量の大幅アップを図る。当時、25歳の山下さんはこの手法に疑問を感じていた。農業基本法が制定された年、結婚した。山下さんが選んだのはみかん。西日本各地でみかんを奨励する講演会が開かれた。みかんの木は一人前に成長するまで約10年かかる。ようやく本格的な出荷ができるようになったとき、山下さん一家に苦難を襲った。それは生産過剰となったみかんの価格が暴落したのだ。農業基本法が制定され20年、山下さんが暮らす集落に衝撃的な事件が起こる。死米が出た土を掘り調べてもらうことにした。この田んぼでは化学肥料に頼り切り昔ながらの手法をやらなくなッタ結果、土の中の微生物が極端に少なくなっていた。土が固くなり稲の根っこが張っていなかった。死米発生は各地で報告されている。その頃、日米農産物交換を行っていた。農産物輸入自由化が日本は農業自由化の波が押し寄せていた。山下さんの物語が原作となりドラマ化された。農産物の輸入自由化を問う討論会に山下さんは農家として参加した。1988年、日米オレンジ交渉が決着する。山下さんはみかんの木を切ることにした。山下さんはタイ・イサーン地方へ旅に出た。タイには失敗し土地を奪われる農民が続出していた。農民が交流し学び合うための立ち上げた。

キーワード
ひこばえの歌吉富勝山下惣一山下武雄振り返れば未来 山下惣一聞き書き木本教子池田勇人訪問インタビュー

山下さんは直売所を設置した。野菜や果物だけでなく地元漁師らと新鮮な魚も並べた。主役は女性と高齢者。山下さんは農家の女性たちと一緒にタイを訪問した。女性たちは農民たちに成功するため女性が頑張らないとダメと伝え続けた。山下さんが心を動かされたものがある。田んぼが持つ命を育む力を明らかにしてきた。2007年、山下さんはタイを訪問した。そこには驚くべき光景が広がっていた。この地域の農民たちは森を復活させる大規模伐採した農林を復活させようとした。改めて小さな農業の大切さを学び山下さんは小農業会を設立した。国連は家族農業の10年を先月する。8割以上生産し、土台であるという。さらに10年はSDGsも連動し貧困の撲滅、生物多様性の確保、CO2削減に貢献するとしている。農民作家・山下惣一さんは去年夏、死亡した。本音で発表し続けた86年の障害だった。山下さんの理想は地元・九州の町にも受け継がれている。

キーワード
山下惣一持続可能な開発目標身土不二の探究
(エンディング)
エンディング

エンディング映像。

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