2024年1月29日放送 16:45 - 17:00 NHK総合

空旅中国 英雄が駆けた道
「長城への道」

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(オープニング)
オープニング

オープニング映像。

(空旅中国 英雄が駆けた道)
長城への道

万里の長城は世界文化遺産に指定されている。紀元前3世紀に始皇帝が作った頂上では北方の遊牧民の進入を防ぐのが狙いだった。しかしこれよりも古い頂上が中国のあちこちで見つかっている。黄河で中国の文明が栄えたが、そこから南の方角へ山を超えて200キロの場所には最も古い頂上がある。その真下には石垣のようなものがあり、それが複数の山にある。尾根にも線があるがこれが頂上。幅は1mほどで、石を積み上げていて高さは2mほど。ここの地元に住む中国人の男性は山をよく歩き回っているという。これは楚の国の長城のもので2千数百万年のものだという。この石積みは武器を外に出して攻撃をするためのものだった。

キーワード
万里の長城方城県(中国)黄河

今から2500年以上まえに春秋と呼ばれる戦乱の時代に黄河の南側に楚と言う国があったという。楚は領土を守るために国境の山々に石を積んで長い壁を作った。黄河流域の国々が攻めてくるのを恐れたからだったが紀元前656年に楚が危惧していた事が現実に。黄河流域の8カ国が楚の国を取り囲んだ。楚の王は使者を連合軍に送り込んで申し出、力でねじ伏せるのであれば山々を城壁とし戦うと宣言。他の国々はその山々を見て和睦したという。やがて兵を引き連れて黄河の方へ帰っていったという。始皇帝の時代よりも古い頂上は黄河を北へ向かうとモンゴル高原の近くの谷間に線が見える。これは頂上で春秋の次の時代の戦国時代に築かれたもので趙という国が作った。高さ3、4mで土を積み上げ300キロの長さまで続いている。

キーワード
万里の長城黄河

この土壁が作られたのは北方の遊牧民の侵入を防ぐため。馬に乗りヒツジを追って生活をしていたという。当時の地図では黄河の北側に趙という国があり北の境を匈奴と呼ばれる遊牧民と接していた。趙と匈奴は領土を巡って激しい戦いをしていた。趙の兵士は遊牧民の闘い方に目を見張ったという。馬に直接乗り、サッと矢を射ており、趙は戦車と歩兵。その機動力が全く違った。その苦戦の知らせが趙の都にも届いた。遊牧民に出来ることは趙の兵士にも出来ると考えた王。家臣たちの反対を押し切って兵士に遊牧民と同じようにズボンを履かせ馬から矢を射る訓練を始めたという。これを胡服騎射と言い、古都は当時遊牧民の匈奴をさす言葉だった。王はこの高台にのぼって自ら調練の指揮を取ったと言うがその後屈強な騎馬隊が誕生した。次々に周辺の国々に勝利を収め帳は領土を繰り広げた。そして北の国境で遊牧民匈奴との戦が始まった。組織化された趙の騎馬隊は遊牧民を追いやったという。趙は遊牧民の土地と奪い、広げた領土の境界線にこの長い土の壁を作った。さらに時代が100年ほど下り、紀元前3世紀の秦の始皇帝の時代がやってきたが始皇帝も匈奴に対抗するために北の境に長い石の壁を作った。しかし匈奴の馬は長い距離を駆け長城を回り込んで内側に攻め込んで来るかもしれないと始皇帝は戦国時代に趙が作った長城と自ら作った長城をつなぎ、その先の国が作っていた長城とも連結した。こうして万里の長城が完成した。

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万里の長城内モンゴル自治区(中国)始皇帝武霊王邯鄲市(中国)

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