- 出演者
- -
「大河ドラマ 豊臣兄弟」は兄妹を描いた物語だが、四国にも乱世を駆け抜けた兄弟がいる。長宗我部元親と長宗我部親泰である。長宗我部の領地は太平洋に面した土佐の中央にあった。元は小さな豪族だったが、25年で勢力を広げ、四国の殆どを収めるまでになった。天正4年、敵方についた日和佐が関係修復を持ち出した。岡豊城跡にある高知県立歴史民俗資料館には、兄弟の出した答えが残されていた。兄弟自ら実際に筆をとった起請文とよばれる誓約書。書かれていたのは「帰参の儀 珍重」という文字だった。兄弟は日和佐を丁重に扱い、協調を選び、同盟者を増やしていった。土佐から四国へ目を向けると、兄弟の前には避けれは通れない難敵「三好」が立ちはだかる。兄弟が信頼を寄せた男は、織田信長。信長のは長宗我部と手を結ぶ理由があった。この頃信長が目指していたのは、畿内・播磨などの統一。しかし、そこには信長に敵対する勢力が立ちはだかっていた。信長が警戒したのは三好。そこで、長宗我部に三好を抑えさせようと信長は考えた。兄弟は阿波で勢力を広げいく。ところが、1581年。信長は阿波を三好に任せると方針を変えた。畿内・播磨などの統一を終えた信長、次に見据えたのは中国地方で絶大な力を誇る毛利。毛利攻略のため、信長は三好のもつ強力は水軍を味方につけようと考えた。長宗我部にとっては味方は敵。信長が三好を重んじるほど立場は苦しくなっていった。深まり続ける両者の溝の先に待っていたのは、信長の四国攻めだった。先陣は息子・信孝率いる1万4000人の軍勢。その後には信長も四国に渡る作戦。ところが前夜1582年6月2日、本能寺の変が起こる。明智光秀によって信長は命を落とした。四国攻めは目前で潰えるほどになった。
兄弟の前に新たな敵が立ちはだかる。信長の跡を継いだ秀吉だった。秀吉が目を向けたのは毛利、そして両者は和睦に向けて動き出す。これは元親たちにとって悪夢だった。金子元宅は現在の愛媛・新居浜市をおさめ、毛利勢力と向き合う四国の最前線を任されていた。その頃、四国の外では新たな戦いが幕を開けようとしていた。小牧・長久手の戦いだった。四国にいた長宗我部も無関係ではなかった。信雄と家康は秀吉を伐つため、兄弟に淡路へ軍勢を出してほしいという書状が送られた。この頃元親たちは四国屈指の勢力へと成長していた。そこで家康は秀吉包囲網に兄弟を組み込もうとする。兄弟が軍を出せば、秀吉を東西から挟み撃ちにできるから。家康は何度も兄弟に書状を送るが、誘いが兄弟を悩ませることになる。参戦すれば四国の守りに隙が生まれる。そうなれば最前線で毛利と向き合う金子が危険に晒される。家康との交渉にあたっていたのは、弟・親泰だった。元親は金子に「もしも毛利が進軍してきたら、早々に親泰を出陣させる。安心せよ」と言っていた。家康には出兵を約束し、金子には守ると約束した兄弟。実際に淡路へは出兵しなかった。それでも家康は兄弟との同盟関係を重視し続けた。さらに元親から金子への書状には、家康との同盟について伝えたことも記されていた。しかし、小牧・長久手の戦いを経て、時代は秀吉の元へと動き始める。元親はさらなる手をうっていた。阿波・讃岐の返上を秀吉に提案。さらに、自身の息子を人質に送った。ところが元親の交渉も虚しく、秀吉は動く。秀吉・秀長が四国を一気に攻め込む作戦。その時最前線にいたのは、金子だった。金子は降伏しなかった。金子の討ち死にから1週間後、兄弟は降伏。その結果長宗我部の領地は大きく削られた。かつて四国のほとんどをおさめていた長宗我部に残されたのは土佐だけだった。その後、秀吉 の家臣となった長宗我部兄弟、それでも2人は金子との約束を忘れなかった。元親が晩年力を注いで作らせた土地台帳。全部で300冊に及ぶ。その中に金子の息子名前「金子毘沙寿丸」が残されていた。元親は金子の親族まで領地を与えていたのだった。家を守ってほしいという金子が託した願いは土佐で生き続けた。
エンディング映像。
