2024年8月14日放送 0:31 - 1:30 NHK総合

ETV特集
選「“玉砕”の島を生きて〜テニアン島 日本人移民の記録〜」

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オープニング

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“玉砕”の島を生きて〜テニアン島 日本人移民の記録〜

太平洋に並んで浮かぶサイパン島とテニアン島。太平洋戦争中、ここにアメリカ軍が上陸。日本軍は全滅し、日本人の住民も次々と命を落とした。生き残った住民に取材をした。長い歳月を経て、生と死の記録が語られた。

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(“玉砕”の島を生きて〜テニアン島 日本人移民の記録〜)

戦前、日本から多くの移民を送り出した南洋興発株式会社の懇親会には、玉砕の島を生き延びた人たちが毎年集う。テニアン島の戦争を生き延びた高松藤子さん(旧姓:小檜山)は当時12歳だった。小檜山一家もテニアン島で多く起きた集団自決の犠牲者で、8人家族のうち4人をテニアンで亡くした。藤子さんは母が元気なうちは戦争の話は断り続けていたという。藤子さんの母・小檜山ミサさんは取材当時94歳。ミサさんは福島の農村で育ち、1927年に賢二さんと結婚。翌年、夫婦でテニアン島に渡った。昭和の始めの農村は不況のどん底、そこにテニアンへの移民募集があり、村の仲間と一緒に2人は故郷を離れた。募集したのはサイパンやテニアンで大規模な製糖工場を運営していた南洋興発株式会社。困窮する日本の農民を送り込み、開拓を担わせていた。当時、島では1万5千人以上の移民が暮らしを築いていた。夫婦は5人の子どもに恵まれ、故郷から夫の母も呼び寄せた。

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南洋興発に採用試験を受けて入った社員もいた。その1人が有元さん。仕事はサトウキビ移民を監督すること。18歳の有元さんは農家40世帯を任され、肥料づくりから収穫まで指導・監督したという。しかし、日本は1941年に太平洋戦争に突入。翌年から戦局は急速に悪化していった。アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略し日本本土爆撃の拠点にすることを狙った。一方、日本軍は本土防衛のため絶対国防圏を設定。1944年春、テニアン島に急遽8000人の守備隊を派遣し軍事基地化を進めた。島では2つ目の飛行場の建設が始まり、南洋興発が工事を請負、全社員と移民を動員した。炎天下、建設用の機械はなく全てが人力。けがをする人が続出し、賢二さんも体調を崩して37歳で亡くなった。夫を亡くしミサさんは1人で幼い5人の子どもと義母の命を背負うことになる。1944年6月、米軍がサイパンに上陸。そして、テニアンも爆弾に襲われるようになる。小檜山さん一家は飛行場近くの家を出て、おじの住むソンソン近郊の防空壕に身を寄せた。サイパンは3週間で陥落し、攻撃はテニアンに集中するようになった。7月24日に米軍がテニアンに上陸。強大な米軍に対抗するため日本軍は急遽島にいた民間人の男性を義勇隊として戦力に加えようとし、有元さんも義勇隊になるよう会社から告げられた。命じられたのは陣地構築。命は1週間も持たないと思った有元さんたちは空襲を避けながら工場から砂糖と米を運び出してぼた餅を作り、残っていた20人ほどの仲間たちと食べた。その直後に艦砲射撃で同僚を失った。

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島の南端にあるカロリナス台地は多くの日本人家族が避難した場所。ジャングルの中に点在する洞窟には米軍上陸の前から多くの人々が避難していた。やがてそこに退却する日本軍も逃げ込んできた。小檜山さん一家7人は遅れてカロリナスに辿りつき、洞窟はどこも子どもを連れた家族でいっぱいだった。炎天下での逃避行、5歳のミネさんは喉の乾きに我慢できずに洞窟を出てしまいそのまま生き別れに。その後、義母・ミツさんも艦砲射撃で亡くなった。米軍上陸から9日後の8月2日、テニアンの日本軍は捨て身の総攻撃を行い壊滅。米軍は住民に投降を呼びかけると共に敗残兵の掃討を始め、応じない人には容赦ない攻撃をあびせた。8月5日、小檜山さんのいる洞窟に米軍に追われる1人の日本兵が入ってきた。日本兵は「捕虜になったら恥だ」と手りゅう弾での自決を迫り、洞窟に居る全員を周りに集めて手りゅう弾を爆発させた。手りゅう弾で死んだのは兵士と隣にいた男の子だけで、残された母親たちは我が子を手に掛けたあと自決するつもりだったという。当時7歳だった昇さんは洞窟の様子を鮮明に記憶していた。

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家族の命を絶つことになったのは母親たちだけではない。二瓶寅吉さんは当時18歳。両親と妹を連れて戦火の中を逃げ回っていた。8月6日、二瓶さんたちは米軍に包囲され、近くに隠れていた仲間の家族を砲弾が直撃。それを目の当たりにし二瓶さんたちは自決を覚悟。「むごたらしく死ぬよりも我が子に殺されたい。生きて供養してくれ」と母親に諭された二瓶さんはこれを受け入れた。二瓶さんは自決しようとしていたところ米軍に捕まった。テニアン島全土を制圧した米軍は収容所を建設。8月中に日本人移民の大半を保護し収容した。しかし、小檜山さんたちは捕虜になることを恐れ、カロリナスの洞窟を転々と逃げ続けていた。ミサさんはある洞窟で1人だけ生き残っていた男の子が忘れられないという。

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小檜山さん一家は他の数家族と共に逃亡生活を続けていたが、ある日すでに捕虜になっていた人が米軍と一緒に探しにきたという。迎えにきたのは洞窟で集団自決を体験した阿部さんの弟だった。結局、全員が投降。家を逃げ出してから3か月が経っていた。ミサさんは収容所で日本人が生きている姿を見て、拒んでいた食料を初めて口にした。この時、一家で収容所まで辿りつけたのはミサさんと藤子さん、昇さんの3人だけだった。サトウキビ畑に作られた収容所で生き残った日本人9500人が1年半を過ごした。ミサさんは仲間との再会を果たし、水が飲みたいと洞窟を出た5歳のミネさんが捕虜になっていることを知った。ミネさんと一緒に出ていったいとこは直後に米軍に保護されていた。ミサさんは全員を引き取り、計5人の子どもの面倒を見ることになった。

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米軍はテニアン占領後、日本軍の飛行場を拡張。1944年11月から日本本土を空襲するB-29が次々と飛び立つようになった。そして、翌年7月、ここにエノラ・ゲイという期待が運び込まれた。仲間を失い戦場をさまよった有元さんは小檜山さんより1か月遅れて収容所に入っていた。英語が得意な有元さんは米軍の施設で働いていた。そして8月に入った頃、原子爆弾投下の情報を耳にしたという。1945年8月6日、原子爆弾はテニアン島の航空基地でエノラ・ゲイに積み込まれ、日本本土に飛び立ち、広島に投下された。9日には長崎にも投下され、15日に日本の戦争は終わった。テニアンの戦いでの民間人犠牲者は3500人。生き残った人々も心に傷を抱えたまま戦後を迎えた。戦争中、日本ではテニアン島の日本人は全員死んだと報じられていた。帰国した有元さんは家にこもり続け、前を向くことができたのは1年後。実家の農業を継いで生きる道を歩み始めた。

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引き揚げ後、子ども3人と福島県の実家に身を寄せたミサさん。戦後は道路工事や助産院のまかないをして女手一つで3人の子どもを育てた。集団自決のことを親子の間で語ることはなかったという。ミサさんは2009年に100歳で永眠した。2017年、藤子さんはテニアンで慰霊を行った。日本人の慰霊碑が建つカロリナスに藤子さんは家族のための小さな碑を置いている。藤子さんの取材を始めて13年、藤子さんは7か月の弟は母に頼まれて自身が手にかけたと打ち明けた。

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(エンディング)
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