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オープニング映像。
金原まさ子さんは東京を離れ一人息子と群馬に疎開していた。前年からアメリカの本土空襲が始まっていた。しかし爆撃を受けたのは主に軍事工場で市街地の被害は限定的だった。舩渡和代さんは国民学校6年生だった。家族はバラバラに生活していた。2月末に父が一家で集まろうと子供たちに手紙を書いた。開戦直後、大東亜共栄圏の建設の名の下、勢力圏を広げた。1月、主に軍事工場を狙っていたそれまでの方針を大きく転換させる司令官が就任する。カーチス・ルメイ少将が打ち出したのは大規模の無差別爆撃だった。ターゲットにされたのは東京の下町だった3月10日、300機ほどのB29が32万発の焼夷弾を降り注いでいった。逃げようとした時は既に街全体が炎に包まれていた。万吉の手記を元に当時の出来事を紹介した。万吉は家族の遺体すら見つけることができなかった。住む家がなく、一家は東京を離れることとなる。この空襲によって一夜で10万人以上の命が奪われた。東京大空襲の2日後には名古屋、大阪で無差別爆撃があった。
戦争を継続するという国の指導者たちの方針は変わらなかった。アメリカの攻撃は空襲だけではなかった。レイテ島に上陸し日本軍を壊滅させるなどアメリカ軍はした。マニラにはおよそ7000人の日本人が1943年に住んでいた。新美彰さんは娘が誕生した直後、夫が日本軍に召集された。日本陸軍の主力部隊は持久戦に持ち込もうとマニラから北部の山岳地帯へ移動していった。女性や子供陸軍とともに北部へ移動することとなった。マニラを離れた新美は娘と山岳地帯へ入った。現地住民の畑から作物を奪って食いつなぐようになった。日本軍は現地の人々にも敵意を強めていった。現地部隊の電報が残されている。
当時のアメリカ軍の報告所はある建物で40人の女性が日本の将兵による性暴力にあったとしている。新美は夫の戦況を知らないまま、北へと逃れていった。過酷な逃避行の中で娘は衰弱していき亡くなった。追い詰められた日本軍はひろしましに重要拠点を置いた。軍需工場には中学生が労働力として働いていた。松岡幹太郎さんの父は病気のため召集されず一家6人で暮らしていた。家族は疎開していたが長女だけが市内に残っていた。休むことなく勤務に励んでいたという。
アメリカでは新兵器の開発が進められていた。それは原子爆弾である。ターゲットの一つが陸軍の拠点がある広島だった。マニラを陥落させたアメリカ軍はその矛先を沖縄に向けた。4月1日、空と海から爆弾を浴びて沖縄本土に上陸。総勢54万の兵力で進撃していった。迎え撃つ日本軍が抱えたのは軍官民共生共死。戦場み借り出しアメリカ軍に損害を与える方針だった。徳元八一は家族を疎開させ自らは沖縄に残っていた。急増していく日本軍の戦死者。徳元は日本軍が沖縄出身の住民などをスパイの疑いで拘束したという話を聞いた。戦況が悪化するにつれ義勇隊は南へ追い詰められていった。その頃本土では戦況が美談に置き換わって報じられていた。しかし6月23日、沖縄の日本軍は壊滅状態になった。徳元は二十七日陸上突破と命令を伝えられた。徳元の胸中込められた沖縄の琉歌が紹介された。
沖縄の陥落によって人々は危機感をつのらせていった。軍の指導者の一部は本土決戦に自信を持てなくなっていた。参謀総長は昭和天皇に戦力が十分でないことを打ち明けた。指導者たちは密かに連合国との交渉の道を探り始めた。期待したのはソビエト連邦。しかしこの時に日本との戦争に参加する密約をアメリカなどと交わしていた。松岡は疎開先で戦争の行く末を案じていた。松岡は渋る娘を1週間の約束で疎開先に連れて行った。その頃アメリカは原子爆弾の開発に成功した。娘を疎開させて10日が過ぎ、娘は広島へ帰って行った。その頃、日本に幸福を求めるポツダム宣言が発表されたが日本の指導者たちは受け入れなかった。いつものように出勤した娘は部品作りを始めた。広島に原爆が投下され、松岡は広島へ向かった。手がかりを求めて広島郊外の知り合いの家を駆けつけた。娘と父は再会できた。8月9日、長崎にも原子爆弾が投下された。同じ日、ソビエトが中立条約を無視し満州に侵攻した。指導者たちはポツダム宣言の受諾を決めた。
エンディング映像が流れた。