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「ウィリアム・マカヒル大尉」 のテレビ露出情報

今から80年前、南洋の楽園と呼ばれたサイパンで日米が死闘を繰り広げた。アメリカ兵はここで初めて日本の民間人と対峙することになった。住民の半数が命を落とし、アメリカ軍はこの戦いを機に日本の民間人を犠牲にすることを全く厭わなくなっていった。アメリカ議会図書館で80年前、第2次世界大戦中にアメリカ海兵隊のラジオ通信兵が記録した録音記録が新たに見つかった。サイパン島の戦いを記録した音声は50時間。第1時世界大戦以降、日本が領土としていたサイパンでは国策として砂糖の生産が進められ繁栄をみせていた。労働力となっていたのは沖縄や東北地方からの移住者、チャモロなどの先住民だった。米軍上陸時には日本の民間人約2万人が残っていた。ミッドウェー海戦で致命的な敗北を喫した日本は本土防衛のため1943年9月に絶対国防圏を設定。マリアナ諸島のサイパンはその要衝だった。一方、アメリカ軍にとってもサイパンは日本本土を攻撃するうえで再重要地点だった。攻略すればアメリカが開発していた最新の爆撃機B-29によって日本を爆撃範囲に捉えることが可能になるからだった。1944年6月15日、アメリカ海軍はサイパン島への上陸を開始した。日本軍4万3000に対し、アメリカ軍は兵力7万1000で上陸。作戦を優位に進めるため艦砲射撃とともに上陸を試みた米軍だったが、日本軍の猛反撃に遭い、米軍の兵士たちは次々に死傷した。
同行していた通信兵には国民の士気を下げないため死傷者の詳細を質問しないという決まり事があったが、初めて見る惨状を前にラリー・ヘイズ通信兵は思わず質問した。「何人の兵士が死んだのか?」という問いに船に同乗している兵士は「正確にはわからない」と返答。従軍記者に上陸戦について尋ねると「死傷者数は言えないが上陸した人員の75%は失った」との返事が返ってきた。3日にわたる激しい戦闘の末、物量に勝るアメリカ軍が上陸を果たし拠点を築いた。アメリカ軍は初日だけで約2000人が死傷。一方、戦力の中心を海岸線に配置していた日本軍は兵力の多くをこの時点で失った。上陸を果たしたアメリカ軍は南部の飛行場を占拠し日本軍を北へと追いやっていく。同時に民間人を保護するための収容所を設置し投降を呼びかけていった。アメリカ軍はこの時初めて日本の民間人と触れ合うことになる。収容所にいる日本の子どもたちにキャンディーを与え通訳を介しコミュニケーションをとった。
1944年6月27日、ラリー・ヘイズ通信兵らは日本から奪取した南部のアスリート飛行場近くにいた。アメリカ兵は突如日本兵の襲撃を受ける。兵士たちはそれをバンザイ突撃と呼んでいた。玉砕覚悟でなりふり構わず銃剣を振り回す日本軍の兵士たちの攻撃は米軍に多大な心理的ダメージを与えた。ヘイズは日本兵からバンザイ突撃を受けた23人の兵士から惨状を聞き出していった。それは後に硫黄島でも厳しい戦いを強いられる第4海兵師団25連隊の兵士たちだった。その日の25連隊の報告書には「SASAGI」の文字が記されていた。このバンザイ突撃を指揮したのは陸軍独立歩兵第317大隊の佐々木己代太大尉だった。奇跡的に生還した元海兵隊員の有村敏春さんは当時、佐々木大尉から「生きて帰っても捕虜になるばかりだからひとり一兵卒になっても絶対に生き帰ったらだめだ」と命令されたと証言している。追い詰められた日本軍にはもう玉砕ありきの攻撃手段しか残されていない状態だったが、アメリカ軍から見れば「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んでいく姿は天皇のために命を捧げることが何よりも尊いと思いこんでいる狂信的な兵士でしかなかった。
米軍のサイパン島上陸から2週間。兵士たちは疲弊し故郷に帰りたいと口々に漏らすようになった。米軍は最大の街ガラパンを破壊し日本兵と住民を島の北部へと追い詰めていく。戦闘が激しさを増す中でもアメリカ軍は国際法に則り戦う意思を持たない民間人への攻撃を固く禁じていた。しかし、徐々に兵士と民間人の区別は曖昧になっていき、誤って日本人の子どもを射殺してしまった米軍兵士が良心の呵責に苛まれ帰国前に自ら命を絶つ悲劇も起きた。逆に日本の民間人が「日本兵はいない」と嘘をつき投降する際に兵士が手榴弾を投げ米兵を殺害する事件も発生。米兵は罪悪感とともに日増しに疑心暗鬼になっていった。自分が攻撃されないためとにかく物音がした方を攻撃する米兵と逃げ惑う日本の民間人という悪循環ができあがりつつあった。この頃、日本陸軍の参謀本部ではサイパンの住民について話し合いが行われていた。出席者からは住民にも玉砕の覚悟を求める意見が出ていた。現地の日本兵たちも投降はせず最後まで協力することを住民に求めていた。
フレデリック・ストット中尉は日本の民間人に日本兵が紛れ込んでいたときのことを手記に残していた。手記によるとストットが所属する部隊が住民の保護に向かったところ、紛れていた日本兵から銃撃を受け、12人が死傷したという。「死と破壊が自然の摂理となった。民間人が死ぬこと良心の呵責を感じることはなくなっていた」と記されていた。民間人保護を掲げていた米兵たちの行動はやがて狂気を帯びていく。捕らえた民間人を連れ回し見世物にしたり、無抵抗の民間人を射殺するのを楽しんだり、次第に残虐行為に喜びを見出す者が増えていった。7月7日、抵抗を続けていた日本兵約3000人が総攻撃の末に玉砕した。その2日後、米軍は島の最北端に到達。1944年7月9日、サイパン島の占領を宣言する。岬に追い詰められた日本兵、民間人は次々に自決。兵士のみならず民間人まで自ら命を絶つ光景を前に、米兵の日本人に対する考え方は一変した。当時のデビッド・シュウプ大佐は「日本人を殺すことはこの部隊のすべての将校と兵士の強迫観念となりつつある」と語っている。ロバート・シャーロッド従軍記者は「我々はサイパンでジャップを皆殺しにしなければならないと確信した」と残している。サイパン島の戦いで米軍3000、日本軍4万1000、住民約1万人が亡くなった。サイパンを占領した米軍はその後、B-29や原爆で日本を血の海に染めていった。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年8月18日放送 21:00 - 21:50 NHK総合
NHKスペシャル“最後の1人を殺すまで”〜サイパン戦 発掘・米軍録音記録〜
今から80年前、南洋の楽園と呼ばれたサイパンで日米が死闘を繰り広げた。アメリカ兵はここで初めて日本の民間人と対峙することになった。住民の半数が命を落とし、アメリカ軍はこの戦いを機に日本の民間人を犠牲にすることを全く厭わなくなっていった。アメリカ議会図書館で80年前、第2次世界大戦中にアメリカ海兵隊のラジオ通信兵が記録した録音記録が新たに見つかった。サイパン島[…続きを読む]

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