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「ココロツタエ」 のテレビ露出情報

谷村さんはコロナ禍で新しい試みを始めたという。オンラインでの映像配信を始め、毎週欠かさず更新している。20代の制作スタッフと切磋琢磨する谷村さんの姿があった。コロナ禍でコンサートの自粛期間が1年近くに及んだ谷村さんは2021年4月、待ちに待った再開を迎えた。
子どもたちに歌の楽しさを伝える「ココロの学校」がこの秋再開する。15年前から全国150公演以上行ってきたコンサートだ。直接会って歌うことを谷村さんは大事にしてきた。コンサート3か月前、谷村さんから子どもたちに2曲の課題曲が伝えられた。「いい日旅立ち」は子どもたちには歌詞が難しいようだった。どのようにすれば人に届く歌が歌えるのか先生がヒントを与えてくれた。子どもたちは歌詞の中から気になる言葉を書き出した。
谷村さんの音楽活動は1971年に結成したバンド「アリス」として始まった。多い時は年間303ステージを記録、直接歌を届けることにこだわったアリスは国民的人気バンドとなった。アリスが活躍した1970年代は日本にとって歴史の転換期だった。終戦以来、関係が断絶していた中国との国交が回復したのもこの頃だ。1981年、日中国交正常化10年を記念してアリスが北京で公演を行うことになった。ステージの後、通訳の男の子に「日本はどうして中国に背中を向けてるんですか?」と言われ、ちゃんと向き合おうと思ったという。その後、谷村さんはアジアでの活動を活発かさせ、各国の歌手にも共演を持ちかけた。代表曲「昴」は今もアジア各地で愛されている。
谷村さんは55歳のときに帯状疱疹になった状態でステージに立っていた。自身の命とも言えるツー活動を無期限停止、予定をすべて空っぽにして休業せざるを得なかった。そんな時、中国最高峰の音楽大学から教授に就任してほしいという依頼が舞い込んだ。谷村さんは自由に自分の気持ちを表現してみてほしいと詩の授業を行った。当時、中国と日本は歴史認識の違いから関係が悪化していた。当時、上海に留学していたディレクターは中国の友人たちと日中友好のメッセージを込めたミュージカルを作ろうと思いたったが、課題が山積みだった。そんな時、谷村さんに協力を依頼したところ、その場で快諾し「国は違っても本音で向き合えば思いは通じる」と声をかけてくれた。
谷村さんの教え子で、シンガポールで活躍するジミーには谷村さんとの忘れられない思い出がある。谷村さんの曲にクラスメートと中国語の歌詞をつけて日本のステージで歌った。音楽人生50年目を迎えた谷村さんにお祝いのメッセージを贈りたいと中国の元生徒たちから映像が届いた。直接話したいというジミーと話した。
上海から帰国後、谷村さんは日本の子どもたちに「音楽は人と人をつなぐ」と感じてほしいと考えた。ココロの学校の本番に向けて大詰めの子どもたちはもう一つの課題曲「サライ」を練習していた。高山澄玲さんは歌の中にある「ふるさと」に意味を知りたいと、隣町に住む祖父母を訪ねた。
本番の日、当日のリハーサルは子どもたちと谷村さんの初対面となった。谷村さんは子どもたちに夢はなんですかと聞いた。子どもたちは練習した歌を披露した。谷村さんは「一緒に感動する体験が伝えるということ」と話した。

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