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「コザ孤児院」 のテレビ露出情報

1945年4月米軍が沖縄本島上陸。民間人を巻き込んだ地上戦が始まった。当時9歳だった神谷洋子さん。沖縄南部の防空壕で艦砲射撃によって母・弟を亡くす。その後はひとり戦場をさまよったという。気がつくと米軍に保護され、トラックで民間人収容所へ連れて行かれた。米軍は生き残った住民を管理化におくため、こうした場所を作っていた。沖縄戦に詳しい専門家に案内してもらった。当時、1万人以上が収容されていたという。こうした場所は北部を中心に12か所に作られる。生き残った住民約30万人以上がそこで暮らし始める。収容所といっても実際は集落一帯を使った地区と言えるほどの大規模なものもあった。住民たちは外出を制限され、飢えに直面。不衛生な環境により、感染症に苦しむ。
米軍は30万人を超える住民の管理のため、収容所の中に自治組織「沖縄諮詢会」を作った。当時、会議で使われた建物が残っている。「諮詢会」のメンバーは収容所にいた行政の経験者や政財界の人たちだった。食料の配給・戸籍や教育の整備など復興のための話し合いが行われ、沖縄の戦後はここから立ち上がっていく。収容所には沖縄の歴史上初めての孤児院も作られた。神谷さんもここに入った。使われたのは戦禍を免れた民家。今も当時の姿のまま残っている。コザ孤児院には多くの子どもが押し込められるように暮らしていた。600人ほどいたという記録もある。親を亡くした中学生が自分のきょうだい達の世話を9歳の神谷さんに押し付けてきたという。孤児院で炊事の手伝いをしていたその中学生はきょうだいの世話を拒んだ神谷さんに食事を与えなくなったという。さらには暴力を振るうこともあったそう。日に日に弱っていた時、ひめゆり学徒隊のお姉さんが軍医の治療を受けさせてくれた。ひめゆり学徒隊は戦争で多くの若い仲間を亡くしていた。生き残った女性たちは子どもたちのためにと奮闘した。
収容所の生活ではほかにも戦後の歴史に残る出来事があった。1945年9月各収容所で行われた市議会議員選挙。米軍の意向もあり、日本本土より早く女性の選挙参加が実現する。沖縄戦に詳しい専門家の川満さんは初の選挙に参加した女性に話を聞いていた。女性は「アメリカが女性を人間にしてくれた」と話したそう。戦後の光と影を映し出した収容所。終戦後、役目を終えていく。収容所から解放された住民は故郷へ帰れることになった。しかし、彼らの前に広がっていたのは一変した沖縄の姿だった。かつての集落を埋め尽くすように巨大な米軍基地が出現していた。基地を作るため邪魔な住民を隔離するという役割を民間収容所は背負っていた。孤児院を必死に生き抜いた神谷さん。今では多くの子どもや孫に恵まれた生活を送っている。

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