TVでた蔵トップ>> キーワード

「サンノゼ州立大学」 のテレビ露出情報

ケンタッキー州のルイビル、この街でカシアス・クレイという12歳の黒人少年が自転車を盗まれたことから物語が始まる。「盗んだやつをぶちのめしてやる」と泣きじゃくるクレイに事件を担当した警官は「ケンカのしかたを習っておけ」とボクシングを教える。瞬く間に上達したクレイは18歳にして五輪で優勝を果たす。このクレイこそ、後のモハメド・アリであった。1964年、クレイは世界ヘビー級チャンピオンであるソニー・リストンとの試合に無傷で勝利。これを機に一躍時代の寵児となったクレイは挑発的な言動で人々の人気を集め、絶頂の最中で「モハメド・アリ」に改名することを発表した。
改名の背景にあったのは当時のアメリカで横行していた黒人差別への怒りだった。オリンピックで優勝を経験しながらも好きなレストランに入ることもできないという現状に対し、アリはベトナム戦争への徴兵を拒否するという形で露にする。当時のベトナムでは泥沼化した戦闘が続いており、アリはこの行動でベトナム戦争反対を訴えたのだ。しかし、国家を敵に回したことでアリは有罪判決を受け、更には黒人アスリートを含めた多くのアメリカ人から批判を受けてしまう。こうした中でもアリは全国の大学で講演を続けながら自分の信念を訴え続けた。アリの言葉はベトナム戦争に疑問を抱いていた若者たちに勇気を与え、やがてアリは反戦のシンボルとなっていく。大きく膨れ上がった反戦の意思により、ベトナム戦争の支持率は30%以下にまで下落し、アメリカは史上初の敗戦を経験した。
アリの勇気は更に連鎖し、1968年のメキシコシティー五輪に出場した2人の黒人選手、ジョン・カーロスとトミー・スミスだ。2人は当初、人権を求めてオリンピックのボイコットを考えていた。しかし、その矢先に人権運動の指導者であったキング牧師が暗殺され、2人はある決意を胸にオリンピックへの出場を決める。迎えた五輪本番、男子200mの決勝で優勝を果たしたスミスと3位に入着したカーロス、さらに自ら声をかけてきた2位の選手、ピーター・ノーマンの3人は表彰台の上で計画を実行に移す。スミスとカーロスは「ブラックパワー・サリュート」と呼ばれる黒人差別に講義するパフォーマンスを行い、ノーマンも人権運動のバッジをつけて立った。スタジアムには歓声とブーイングが響き、2人は政治的行為を行ったことを理由に五輪から永久追放処分を受ける。帰国後も2人は激しいブーイングと差別に晒されたが、最後までその行為を後悔することは無かったという。抗議に賛同したノーマンも祖国オーストラリアで冷遇され、その後2度と五輪に出ることは無かったが、彼もまた自らを誇りに思い続けていた。
1974年、アリはキンシャサでボクシングに復帰し世界タイトルに挑む。長年のブランクを抱えたアリはジョージ・フォアマンを相手に逆転勝利を果たし、世界を再び興奮させる。この試合は後にアメリカ大統領となるバラク・オバマもハワイで観戦しており、バラク少年を大いに興奮させた。白人と黒人の間に生まれ、自らのアイデンティティに悩んでいた彼にとって、並外れた勇気を見せるアリは憧れの存在だったのだ。成長したオバマは弁護士を経て政治の世界に飛び込み、肌の色によらず全ての人間が平等に暮らせるアメリカの建国を目指す。2007年、オバマはアメリカ大統領選への立候補を表明。選挙戦では黒人の若者から「なぜ俺たちのために働くと言わないんだ?」と批判も受けたが、それでもオバマは真摯に答え続けた。政治家として奮闘するオバマは、事務所にアリの写真を飾り「不可能はない」と自らを鼓舞していたという。そして、2009年には遂にオバマが大統領に就任。史上初の黒人大統領となったオバマは、ホワイトハウスにアリ本人から贈られたボクシンググローブを飾っていた。その後もオバマは「万人の平等」のため同性婚の支持を表明。世界的に同性婚の動きが加速していった。そして、2016年にはあのスミスとカーロスがホワイトハウスに招かれ、「私達に大きなチャンスをもたらした」と48年越しにアメリカ政府から讃えられた。もう1人のノーマンは名誉が回復されることなく世を去ったが、スミスとカーロスは彼の葬儀に駆けつけたという。メキシコ五輪の表彰台での出来事は後年に銅像となったが、ノーマンの場所は空欄のままだ。そこには「ピーター・ノーマンは共に立った、あなたも共に立ってほしい」と刻まれている。これら全ての出発点となったモハメド・アリは2016年に死去し、ルイビルで行われた葬儀は無数の市民が宗教や人種の垣根を越えて見送った。

© 2009-2024 WireAction, Inc. All Rights Reserved.