戦時中に日本人の父親と生き別れ、フィリピン人の母親の元で育ったタケイ・ホセさん。支援団体の長年の調査で父親は米軍の捕虜となり、日本に強制送還されていたことが判明した。竹井さんは日本政府による残留2世の訪日事業が実現し、戦後80年目にして日本の地を踏むことができた。フィリピンで暮らすタケイさんがずっと願い続けてきたものは日本国籍の回復。タケイさんはフィリピン国籍もなく無国籍として生きていた。日本国籍回復を認めるために行われたのはDNA鑑定。タケイ・ホセさんと母親違いの弟の宏之さんとDNA鑑定すると、98.7%の確立で血縁関係にあるとわかった。しかしその申し立ては法律上の父とは認められないと国籍回復の申立は却下された。高裁でも法律上の父とは認められないと退けられてしまった。
日本国籍の回復が認められなかったのは違憲として、タケイさんは最高裁に特別抗告した。フィリピンには戦前にたくさんの日本人が移り住み、フィリピン人と結婚。家族をもった人も多数いたという。しかし日米の開戦とともに日本軍がフィリピンに侵攻。日本人の移民も日本軍へも協力を余儀なくされ、戦死や米軍の捕虜となり、日本へ強制送還されたために家族の元へ戻れない人が多かった。日本人の父親と離れ離れになり、フィリピンに残された子ども達は判明しているだけで3815人に及ぶ。戦後も苦難は続き、日本人とは名乗れず、当時のフィリピンでは子どもは父の国籍に属するとされていたため多くの2世が国籍がないまま無国籍に。残留2世たちはようやく名乗り出ることができたのは晩年に差し掛かってから。日本人と認めてほしいがその願いにも壁が立ちはだかっている。日本国籍を回復するには両親の婚姻書類や日本人の父親との親子関係の証明が必要になるが、戦火で焼失するなど証拠を揃えることは容易ではない。
番組はこうした実態を4年に渡って取材。すると日本国内で日本人の父親に関する情報が見つかり、日本からやってきた親族と80年越しの対面を実現。日本国籍回復の申請は弁護士が家庭裁判所に対し行う。出会った残留2世のうち、モリネ・エスペランサさんとモリネ・リディアさんら11人が日本国籍を回復。
しかし日本国籍回復の申し立てを却下されたのはタケイ・ホセさんやカンバ・ロサリナさん。理由は両親の婚姻や父親との親子関係を証明する書類はないものの、日本人の父親のみ身元が判明し、DNA鑑定の結果を証拠として提出した。残留2世が生まれたときの旧国籍法には、子どもは生まれたときに父親が日本人であれば、日本人とすると描かれている。2人はその条件を満たしているようには思えるが弁護士は法律上に親子関係がないために国籍を与えないのは過重な要件と語る。3815人にいた残留2世は120人にまで減少。取材した4人の中で36人が旅立ち、裁判所に却下された人や申請さえ出来なかった人もいる。
81年目にして未だに終わらぬ戦後。国はこの問題にどう向き合ってきたのか?元毎日新聞の記者の大野さんは1980年代半ばに残留2世の存在を報じ、国会議員に働きかけを行った。厚生省は遺骨収集を慰霊団を遺族と組んでフィリピン各地に行っていたという。外務省は日本大使館を通じて残留2世からの訴えはあったはずで知らなかったわけがない。政治問題化して初めて動き出したのが実態だと語った。国会での問題提議を受けて当時の厚生省と外務省が現地で実態を調査した。その結果1992年1月までに809人の残留2世の存在を把握していた。しかし政府が援護対象と認めたのは2人だけ。その理由に大野さんは両親が日本人であることに線引し、中国残留孤児問題の支援の範囲でしか考えていなかったと語った。当時の厚生大臣は国会で、残留2世の国籍は向こうにあり、そちらの社会に馴染んで生活しているなどと伝えた。当時の国籍法には日本人の父をもつ子どもは日本人と定められているが二世の国籍はフィリピンにあるとした。
日本国籍の回復が認められなかったのは違憲として、タケイさんは最高裁に特別抗告した。フィリピンには戦前にたくさんの日本人が移り住み、フィリピン人と結婚。家族をもった人も多数いたという。しかし日米の開戦とともに日本軍がフィリピンに侵攻。日本人の移民も日本軍へも協力を余儀なくされ、戦死や米軍の捕虜となり、日本へ強制送還されたために家族の元へ戻れない人が多かった。日本人の父親と離れ離れになり、フィリピンに残された子ども達は判明しているだけで3815人に及ぶ。戦後も苦難は続き、日本人とは名乗れず、当時のフィリピンでは子どもは父の国籍に属するとされていたため多くの2世が国籍がないまま無国籍に。残留2世たちはようやく名乗り出ることができたのは晩年に差し掛かってから。日本人と認めてほしいがその願いにも壁が立ちはだかっている。日本国籍を回復するには両親の婚姻書類や日本人の父親との親子関係の証明が必要になるが、戦火で焼失するなど証拠を揃えることは容易ではない。
番組はこうした実態を4年に渡って取材。すると日本国内で日本人の父親に関する情報が見つかり、日本からやってきた親族と80年越しの対面を実現。日本国籍回復の申請は弁護士が家庭裁判所に対し行う。出会った残留2世のうち、モリネ・エスペランサさんとモリネ・リディアさんら11人が日本国籍を回復。
しかし日本国籍回復の申し立てを却下されたのはタケイ・ホセさんやカンバ・ロサリナさん。理由は両親の婚姻や父親との親子関係を証明する書類はないものの、日本人の父親のみ身元が判明し、DNA鑑定の結果を証拠として提出した。残留2世が生まれたときの旧国籍法には、子どもは生まれたときに父親が日本人であれば、日本人とすると描かれている。2人はその条件を満たしているようには思えるが弁護士は法律上に親子関係がないために国籍を与えないのは過重な要件と語る。3815人にいた残留2世は120人にまで減少。取材した4人の中で36人が旅立ち、裁判所に却下された人や申請さえ出来なかった人もいる。
81年目にして未だに終わらぬ戦後。国はこの問題にどう向き合ってきたのか?元毎日新聞の記者の大野さんは1980年代半ばに残留2世の存在を報じ、国会議員に働きかけを行った。厚生省は遺骨収集を慰霊団を遺族と組んでフィリピン各地に行っていたという。外務省は日本大使館を通じて残留2世からの訴えはあったはずで知らなかったわけがない。政治問題化して初めて動き出したのが実態だと語った。国会での問題提議を受けて当時の厚生省と外務省が現地で実態を調査した。その結果1992年1月までに809人の残留2世の存在を把握していた。しかし政府が援護対象と認めたのは2人だけ。その理由に大野さんは両親が日本人であることに線引し、中国残留孤児問題の支援の範囲でしか考えていなかったと語った。当時の厚生大臣は国会で、残留2世の国籍は向こうにあり、そちらの社会に馴染んで生活しているなどと伝えた。当時の国籍法には日本人の父をもつ子どもは日本人と定められているが二世の国籍はフィリピンにあるとした。
