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「マン島」 のテレビ露出情報

高橋国光さんは日本のオートバイや自動車レースの草分け的な存在で59歳まで現役で活躍した。昭和36年に西ドイツで開催された世界グランプリで高橋さんはトップでゴール。日本人がモータースポーツの世界選手権で優勝するのは史上初の快挙だった。高橋さんは昭和15年の東京小金井市生まれ。父親が自転車やオートバイの販売店を営んでいた。ある日高橋さんはオートバイに無断で乗り転倒してしまった。父親には怒られなかったが注意をされ体力と判断力がないので乗りこなすことができていないと言われたという。父から言われた乗りこなすという言葉は生涯を通じて高橋さんの目標に。中学卒業後にはオートバイ店で働き、2年間勤め上げると父がプレゼントにイギリスのオートバイを買ってくれたという。高橋さんは草レースの飛び入り参加し、その走りを見ていた人物にスカウトされた。それはオートバイなどを輸入する代理店の社長だった。来年のレースに出ないかと言われ、そのまま昭和33年の第1回全日本クラブマンレースに出場。その結果優勝したという。連覇を達成し一躍有名人に。この活躍に目をつけたのが本田宗一郎さんだった。ホンダは世界のレースにも参戦し、高橋さんはそのチームに加入した。
参戦2年目にして世界選手権ロードレースで優勝した。翌年には開幕方連勝を飾った。第3戦に望み、世界選手権のマン島TTレースは歴史ある大会。決勝に進みカーブに差しかかったが転倒しその車体はひしゃげた。その事故現場に向かった高橋さんは死んでいたかもしれないという。頭を強く打って腰の骨を折る重傷で10日間生死をさまよっていたという。この怪我で安全に早く走るという信念がうまれた。その後ホンダがオートバイレースの参戦規模を縮小し自動車レースに転向した。日本の耐久レースでは向かう所敵なしで年間チャンピオンを4回も達成した。平成4年にはチーム国光を結成し、監督と選手を兼任。表彰台に度々のぼるなど快進撃を続けた。フランスのル・マン24時間耐久レースでクラス優勝したのは高橋さんが55歳のとき。59歳で現役を引退し、世界的にみてもこの年令まで走り続けた選手は多くはない。引退跡はチーム監督として二度の年間チャンピオンを獲得した。82年の生涯だった。

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