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「三浦憲治郎さん」 のテレビ露出情報

井上誠氏(66)は東日本大震災による津波で23歳だった長男の翼さんを喪った。2010年、翼さんは町役場の職員となり、旧防災対策庁舎の屋上に避難していたが津波で流されてしまった。翼さんとの思い出が詰まった野球場を管理する井上氏にとって庁舎を見るのは耐え難いというが、14年間、月命日には妻の美和子さんと献花のために訪れる。震災前、想定されていた津波の高さは6.7mだったが、副町長だった遠藤健治氏(76)は10mを超える大津波警報に切り替わり、押し寄せる津波を見た時、尋常ではないと認識したという。旧防災対策庁舎の屋上には54人が身を寄せたが、遠藤氏ら11人のみが九死に一生を得た。南三陸町の死者・行方不明者は831人にのぼった。
及川明氏(62)は旧防災対策庁舎の屋上で助かった1人。震災後、遺族らを前に復興事業の説明をするなか、「『なんでお前は生きてんだ』と見られているんじゃないか」と考えることもあったという。及川氏は「まだ見つかっていない人もいるから余計つらい。家族もつらいけど、職員もつらい」などと話す。同庁舎は震災の記憶を伝える場所という役割が与えられるようになり、町は庁舎を残したまま復興に邁進してきた。井上一家では娘の彩さんが復興に役立ちたいと、南三陸町の職員となった。また、翼さんが寂しくないようにと庁舎の前にひまわりを植えていた。塩水をかぶった花壇から開花し、井上氏は驚かされたという。
チリ地震の津波、東日本大震災に見舞われた南三陸町は災害に強い町を目指し、24年、防災対策庁舎の保存を決定した。三浦光江さん(67)は震災で娘のように可愛がってくれた義母を喪い、86歳だった義父は今も発見されていない。2人は自宅にほど近い防災庁舎へ避難を試み、腰を悪くしていた義父は職員の方におんぶして貰い、屋上にたどり着いた。南三陸町の職員たちは2人が流されないよう抱きかかえていたといい、家を留守にしていた光江さんは申し訳無さを感じるという。町職員だった高橋文禎氏(当時43)は庁舎の屋上にいたが、行方不明となった。息子の禎希氏(27)にとって庁舎は墓標ではなく、職員たちが人命のために職務を全うした場所だという。
南三陸町では慰霊碑を建立し、犠牲となった町職員の名を刻もうと協議が行われた。井上氏にとって息子の翼さんは誇りで、「よく頑張ったと言ってやりたい」と語った。そして、足が動き続ける限り、庁舎に足を運び、花を手向けたいという。25年3月9日、慰霊碑が完成した。旧防災対策庁舎は震災の記憶をとどめたまま、町に残り続ける。

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