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「久保田忍」 のテレビ露出情報

日本の敗戦とともに朝鮮半島南部の日本人が本土に引き上げる際の様子を映した映像が流れた。敗戦時、外国にある日本の支配地域には660万人の日本人がいたという。そこで行方不明になっている人も数多くいたという。660万人のうち、ソ連を除く連合国管理地域にいた300万人超が終戦から1年位内に日本への帰還を果たしたという。一方でソ連軍の進出地域だった満州では多くの軍人や民間人が帰れずにいた。開拓団や日本兵達はソ連軍に捕らえられてシベリアへ送られ60万人がシベリア抑留され6万人が命を落としたという。
その後、満州は中国による陣取り合戦の舞台になった。そして都市部は中国国民党が農村部は中国共産党が支配した。ソ連軍が引き上げるとアメリカと中国が満州の日本人救出に動いた。そしてその際に日本に戻ってきた人の中には、野地の漫画家であるちばてつやや、作詞家のなかにし礼もいたという。政府は引揚者と復員兵のために戦後開拓事業を創設した。そこで食糧問題や就労問題を解決しようとした。
戦後開拓に再出発をかけていた引揚者たちだったが、開拓した土地は農業に不向きな痩せた土地で、朝鮮戦争による開拓地の土地接収の話も出たという。そして満州から最後の引揚船が到着した。海外にいた660万人のうち630万人が帰国を果たしたことになる。ただ旧満州にはまだ1万人以上の日本人が取り残されたままだという。中国残留日本人の野村志津は戦時死亡宣告によって戸籍を抹消されて死亡したことになったという。引揚者の中には開拓事業を諦めて海外に活路を見出す人もいた。一方で戦後の開拓地は福島第一原発や成田空港などの建設のために買収されていったという。
1972年に日本と中国の国交正常化が果たされた。そこで中国に残された残留日本人の帰国の道が開かれたという。中国残留日本人が帰国すると日本人は満州での悲劇を知ることになったという。1973年の新聞で野村志津の帰国を報じている。野村志津は帰国してすぐに入院し、2ヶ月後に死去したという。ただ中国残留日本人の中には日本語がわからない子どももおり、生活は安定したものではなかったという。1990年代になると中国残留日本人の帰国はピークを迎えた。野村志津が残した子どもも日本に移住してきた。孫の野村達雄は日本語を話せなかったがゲームをコミュニケーションにして友人ができたという。
野村達雄は満州からの引揚者として経験があるなかにし礼と対談をした。そこでどこにいてもよそ者意識を味わったという話をした。原発事故で帰還困難区域に指定された福島県浪江町は戦後開拓で切り開かれた土地だ。そこで満州から引き揚げを経験した浪江町住民の声が最後に伝えられた。

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