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「仮名手本忠臣蔵 十一段目 ようち」 のテレビ露出情報

葛飾北斎にゆかりのある江戸名所を巡る。両国橋からスタート。渡邉晃さんによると葛飾北斎は墨田区の中で生涯で90回以上引っ越しする。「絵本隅田川 両岸一覧」は両国場所を描いた作品。1日に2万人の行き来があったという説もある。1657年「明暦の大火」は6万8000人の死者を出し、日本最大の火災。多くの犠牲者が出た原因の1つが、隅田川にかかる橋がほとんどなく逃げ遅れたこと。両国橋はこの教訓からかけられたものだという。北斎は両国の川開きの催しとして打ち上げられていた両国花火も描いていて、その文化は今も「隅田川花火大会」として受け継がれている。両国橋は下総国と武蔵国、2つの国をつなぐ橋でることからその名前が付けられた。
「回向院」は明暦の大火で出た多くの犠牲者を弔うため創立された。江戸時代は境内に設けられた相撲小屋で勧進相撲が行われていて、現在の大相撲の前身になったと言われている。北斎はここでライブペインティングのようなパフォーマンスを行った。北斎は40歳を過ぎたころから即興の席画などを描くことでその名を広めていった。回向院では大きい布袋さんの絵と米粒にも絵を描いたという。
「吉良邸跡」は元禄赤穂事件で有名な吉良上野介の屋敷があった場所。歌舞伎などで事件を題材にした演目が作られ、北斎も絵にしている。吉良上野介の家臣、小林平八郎は二刀流だったと言われ吉良側の中で唯一善戦して赤穂義士を悩ませたと言われていて、北斎の曽祖父だと伝わっている。忠臣蔵の物語の主役は赤穂義士側だが、北斎の絵の中では小林平八郎がメインで描かれている。吉良邸跡の向かいには北斎が養子として育った住居跡があったところで、現在は老舗和菓子店になっている。吉良邸に因んだ吉良まんじゅうが名物だということ。

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