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「六甲牛山」 のテレビ露出情報

明治8年、兵庫県に生まれた柳田國男は、昭和37年88歳で世を去るまでに類まれな業績を残した。過去の日本人の暮らしと思想の移り変わりを分析解明するいわゆる民俗学を初めて開拓した。しかし柳田國男は過去の生活だけを問題にしたのではなく、最も関心を持ったのは日本人の現在及び将来の生活だった。柳田國男が生涯をかけて追求したのは、日本人の幸福というテーマであったと言われている。そして、柳田民俗学の画期的な出発点になったのは、明治43年に出版された遠野物語。物語の舞台は現在の岩手県遠野市。遠野の人々の間で昔から語り伝えられてきた山の神や家の神、天狗などの伝承が収められている。この土地に豊富に伝えられた民間伝承に感動して、断片的な個々の伝承の裏にある大きな意味を探ろうとした。遠野物語の序文は、柳田國男が初めて現地を訪れた時に書かれた。遠野は盆地で、物語にはまず山々とその女神の伝説が記される。女神の他に数々の山の神、山人、天狗などが住んでいる。山に生活の糧を求める人々にとって、山は畏れと信仰の対象であり、山からくるものはすべて神秘の存在であった。鳥御前が実際にある続石の場所で山の神たちの遊ぶところを邪魔したためその祟りを受け死んだという伝承もある。愛宕山も昔から山の神が出ると言い伝えられた場所であり、山神塔が建てられた先は、山の神の領分であり異境であるということを示す目印であることが多かった。二度と祟らないでほしいという願いを込めて労苦を惜しまず建てられた。
柳田國男が記した遠野の石碑には庚申塚・馬頭観世音など様々な文字が刻まれていて、多くの動機から建てられたことが伺える。6月15日には藁の馬を2つ作り、馬の繁殖と無事を祈って馬頭観世音の石碑の前におくる馬っこつなぎという行事が行われていて、馬頭観世音の石碑はかつて馬が倒れた場所に二度と悲劇が起こらないように建てられることが多かった。遠野の峠では不思議なことも度々あり、一行が崖下から声をかけられたり、家で待つ自身の子どもが死んでいると何者かに告げられるなどの伝承がある。遠野の縁結びの神「卯子酉様」の御神体の側の池には昔から珍しい片葉の葦が生え、水の神が祀られているとされている。水辺の近くにの枝に布や紙を結ぶ事で恋の願かけとなり、深夜に片手で結ぶことが条件だという。この地域では度々神秘的な沼などが目撃されることがあり、美しい娘が沈んだなどの伝承があり、多くの場合は二度とその沼が見つかることはないという。遠野物語には小国川近くの村に済む奉公人が山中で主人の斧を川に落としてしまい、水の底で機織りをしている娘を見つけ、斧を取り返そうとした際にその娘が主人の亡くなった娘で、このことを喋るなどと言われたが数年後に喋ってしまい不幸に見舞われたなどの川にまつわる伝承もある。遠野物語は春夏秋冬を追って編集されているわけではない。しかし美しくそして厳しい遠野の四季と共に生きる人々の喜びと悲しみをいたるところに読み取ることができる。冬が長いだけに春は格別の喜びの季節となる。5月、カッコウが鳴くころ柵からカッコ花と呼ばれ、また継母にこの花を取ってくるよう命ぜられた娘がついに見つけることができずカッコウになって悲しくなて泣いているという話から付いたとも言われる。今は幻の花とも言われるカッコ花を山中に発見。正式名はアツモリソウ。花びらの形を平敦盛が背負う母衣に見立ててアツモリソウと呼ぶという。
正月15日の晩は「小正月」といい、ある老人は小正月の日に家を飾る「御作立」を作るため、山中 にミズキを切りに行くとのこと。左右均整のとれた若いミズキの木に沢山の団子を飾るといい、豊作祈願の意味を持つとのこと。柳田國男は日本人の80%の暮らしは記録にも記憶にも残らないとし、旅行によってこのような人々の生活を顧みる意識に目覚めたなどと話した。また各地の珍しい生活様式だけを報告するのは「集め屋」にすぎないとも語った。遠野には冷害と凶作に悩まされた歴史から多くの豊作祈願の行事があり、小正月の夜に雪の上に稲に見立てた青葉を植えることなどが1つの例とのこと。柳田國男はこのような人々の暮らしぶりの何ひとつも見逃さなかったとされている。

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