震災から半年後、国からの補助を取り付け復旧工事は本格的に始まった。72ヶ所が破壊された南リアス線は1区間も運行できていなかった。西松建設と熊谷組の力を借り一気に工事を進めることになった。熊谷組の所長は木村晃。木村は秋田出身で東北の仲間のために困難な現場に名乗りを上げた。被害はひどく作業量は見積もりの3倍。その現状を知り全国から200人の作業員が応援にかけつけた。食事係をかってでたのは、地元の女性たちだった。その1人、熊谷ヤス子は自宅は津波で壊れ仮設住宅から毎朝4時に仕事に向かった。ひときわ苦戦を強いられたのが、ど真ん中で分断された北リアス線の島越地区だった。この地区を任されたのは福島県出身で東急建設の筒井光夫だった。筒井は下水道工事を始め全国で縁の下の工事を担ってきた。1年後、筒井たちの工区は遅れ始めた。地盤改良が難しく橋梁の建設に入れなかった。予定より2ヶ月オ度遅れていた。更に余震や津波の心配も続いた。望月は銀行から融資を受け雇用を守ろうとしたが、賄えなかった。ネジ曲がったレールを磨き、ネットで販売。必死で給料の足しにした。