岩手の三陸は昭和の半ばまで交通網の整備が遅れ、市街地へは船で1日がかりだった。1984年、住民の悲願だった三陸鉄道が開業した。1期生の金野淳一は地域に愛される始業だと大手企業の誘いを断って入社した。2010年、三鉄に新たな社長としておくられたのが岩手県庁職員の望月正彦だった。望月はあと2年で定年、最後の奉公で、学生の挨拶が響く鉄道を見守ろうと思っていた。しかし2011年3月11日、M9の地震が東北を襲った。三陸鉄道が走る沿岸部、200kmに渡り巨大な津波が家々を押し流した。津波警報が収まった2日後、望月は現場を訪れ愕然とした。島越駅は駅舎ごと消えていた。ふと足元を見ると、線路の雪に足跡が残っていたという。移動手段がなくなり線路を歩いて避難所へ向かう人々のものだった。望月は社員を集め「動かせるところから動かそう」と伝えた。責任者の金野は危険すぎると猛反対した。それでも望月は「今動かさなくて、何が地域の鉄道だ」と怒鳴った。震災から5日後2区間だけ列車が走った。一番列車に乗った中戸鎖沙織は「こんなにありがたいと思ったことはなかった」などと話した。復旧工事をしても最低6年はかかると見込まれた。過疎が進む沿線でこの機に廃線はやむを得ないという声が、望月には届いてた。ある日、列車が通らなくなった田野畑駅などを訪れた時、線路脇の雑草を住人が丁寧に刈っていた姿を見た。宮森秀幸さんは、自宅を流されたが駅に通い掃除を続けていた。タマ子さんは「三鉄は宝物なんです」と手すりを磨いていた。望月から最短でどこまで復旧をどこまで早められるか聞かれた、小田文夫は3年とはじき出した。望月は3年後、子どもたちの入学式までに全線を復旧させようと社員に決意を伝えた。