宮田さんがまずやってきたのは結婚したすずが呉にやってきたシーンに登場したバス停。宮田さんは追体験しながら家を目指す。坂道を登り続けてたどり着いたのが、すずさんが暮らす家のモデルとなった住宅があった場所。今は当時の生活が分かるように間取りが記されている。宮田さんが写真を撮っているとやってきたのは片渕須直監督。片渕監督はこうの史代さんの原作漫画に惚れ込み映画化したという。片渕さんが建っていた家の写真を見せてくれた。片渕さんが宮田さんをすずさんが周作と一緒に戦艦大和を見た場所を案内してくれた。当時の町並みや人々の暮らしを再現するために6年をかけて時代考証を行った片渕さんは、何度も呉を訪れてすずさんの暮らしを追求し続けた。戦時下に生きた人々の人生に思いをはせてほしいという。
軍港都市として発展してきた呉。宮田さんは町が歩んできた歴史を教えてもらうことにした。かつてはどこにでもある瀬戸内の穏やかな港だった呉、明治時代に海軍の町として数々の軍艦などが建造されてきた。それに伴い、町は大きく発展。広島県内初の路面電車が開通するなど発していった。すずさんが呉にやってきた戦時中は40万人が暮らす全国有数の町となっていた。戦争が激化すると呉は爆撃の対象となる。昭和20年の空襲で市街地の多くが焼失した呉、その中で当時のまま残る歴史的建造物がある。ミツ蔵は映画の中に何度も登場した。片渕さんが案内してくれたのは、防空壕で空襲を逃れたすずと姪の晴美が歩いていると爆発に巻き込まれた場所。晴美は命を失い、すずさんも右手を亡くした。
「この世界の片隅に」の片隅に描かれたもの。殉国之塔、映画にも登場する女子挺身隊は空襲に巻き込まれ400人以上の若い命が奪われた。今も地域の人が慰霊碑を守り続けている。戦時中、出征する兵士の帰還を願いつくられた千人針、当時を物語る貴重な資料として今も大切に保管されている。終
戦から今年で80年、宮田さんは当時の体験を語り継ぐ人がいると聞き訪ねた。毎年、紙芝居で地元の子どもたちに戦争の悲惨さを伝えている中峠房江さん。中峠さんは7歳のとき、空襲を経験、姉と防空壕に避難したことを物語にして伝えている。約2000人が亡くなった7月1日の呉空襲、中峠さんの父親もその犠牲となった。中峠さんは父が亡くなったという意味が分からない、死ぬというのがどういうことか分からなかったという、よく家族が歌を歌っていた時々合唱をしていたという日常の記憶もあると話した。宮田さんはまだ80年前のものは残っていて手に届く昔を感じることができたと話した。
軍港都市として発展してきた呉。宮田さんは町が歩んできた歴史を教えてもらうことにした。かつてはどこにでもある瀬戸内の穏やかな港だった呉、明治時代に海軍の町として数々の軍艦などが建造されてきた。それに伴い、町は大きく発展。広島県内初の路面電車が開通するなど発していった。すずさんが呉にやってきた戦時中は40万人が暮らす全国有数の町となっていた。戦争が激化すると呉は爆撃の対象となる。昭和20年の空襲で市街地の多くが焼失した呉、その中で当時のまま残る歴史的建造物がある。ミツ蔵は映画の中に何度も登場した。片渕さんが案内してくれたのは、防空壕で空襲を逃れたすずと姪の晴美が歩いていると爆発に巻き込まれた場所。晴美は命を失い、すずさんも右手を亡くした。
「この世界の片隅に」の片隅に描かれたもの。殉国之塔、映画にも登場する女子挺身隊は空襲に巻き込まれ400人以上の若い命が奪われた。今も地域の人が慰霊碑を守り続けている。戦時中、出征する兵士の帰還を願いつくられた千人針、当時を物語る貴重な資料として今も大切に保管されている。終
戦から今年で80年、宮田さんは当時の体験を語り継ぐ人がいると聞き訪ねた。毎年、紙芝居で地元の子どもたちに戦争の悲惨さを伝えている中峠房江さん。中峠さんは7歳のとき、空襲を経験、姉と防空壕に避難したことを物語にして伝えている。約2000人が亡くなった7月1日の呉空襲、中峠さんの父親もその犠牲となった。中峠さんは父が亡くなったという意味が分からない、死ぬというのがどういうことか分からなかったという、よく家族が歌を歌っていた時々合唱をしていたという日常の記憶もあると話した。宮田さんはまだ80年前のものは残っていて手に届く昔を感じることができたと話した。
住所: 広島県呉市幸町4-6