TVでた蔵トップ>> キーワード

「宮沢次郎」 のテレビ露出情報

東京・永田町、今から80年以上前に総力戦研究所の若者たちはこの地で極秘の研究を行っていた。研究所は総理大臣官邸のすぐ側にあり、1940年10月からおよそ4年半実在した。総理大臣直轄の機関として、陸海軍や各官庁・民間から35人のエリートたちが集められた。東京都内に暮らす難波昭子さんは父親が総力戦研究所のメンバーだった。白井正辰陸軍大尉は日中戦争に参加した後、総力戦研究所の一員に抜擢された。ドラマのなかで模擬内閣「陸軍大臣」を勤めた高城源一少佐は白井正辰陸軍大尉をモデルにしている。家には総力戦研究所の様々な写真や資料が眠っていた。アルバムには東條英機首相を囲む研究所メンバーの集合写真もあった。アメリカ・イギリスなどの戦争に向けたシミュレーション(机上演習)の計画表や様々な角度で戦争の行方を分析していた。研究所の設立と運営に中心的な役割を果たしたのが飯村穣陸軍中将である。残した資料を孫の飯村豊さんが大切に保管していた。飯村穣陸軍中将は武力だけでなく国をあげて戦う総力戦を研究するため、各方面から人材を集め所長も務めた。実際の所長・飯村穣はメンバーが自由に議論する環境を整え、人望厚いリーダーだった。研究所のメンバーが戦後思い出を綴った会報には、飯村が机上演習を企画した目的は「日米戦うべからず」と警告するためだったと記されている。海軍にもアメリカとの海戦に否定的な人々がいて、研究所の指導教官を務めた松田千秋大佐もその一人だった。松田は後に戦艦大和の館長も務めた。息子の松田孝行さんは父が海戦に反対した背景にアメリカの国力を自ら肌で感じた体験があったと考えている。松田が戦前に駐在武官としてアメリカに滞在した時の日記にはアメリカの圧倒的な軍事力を目の当たりにしたことが記されていた。
一方で異なる思惑から研究所に期待する人々もいた。東條は研究所の設立を後押しし、度々机上演習の見学に訪れた。メンバーの一人は東條が開戦に向けた地ならしを期待していたと戦後を語っている。異なる思惑が交錯する中、若者たちは組織の壁を超えて率直に開戦の是非を議論した。ドラマでは膨大な資料を集め、それを物語の細部に集めた。「シミュレーション 昭和16年 夏の敗戦」の物語は後編に続く。

© 2009-2025 WireAction, Inc. All Rights Reserved.