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「山水花鳥人物図」 のテレビ露出情報

宮川香山は天保13年に生まれ京都東山真葛ヶ原に生まれた。幼い頃からろう焼の窯元の父の影響で自然とその技術を身につけていった。18歳で家督を継いだ香山だったが時は幕末を迎え、得意先だった公家や武士からの注文が途絶え生活は困窮していく。転機が訪れたのは28歳の時で薩摩の御用商人から卓越した力量を見込まれ、横浜で輸出用の陶器を作って欲しいと頼まれた。当時の横浜は開港から10年あまりで文明開化にわいていた。ガス灯が灯った街位に明治四年、香山は横浜に真葛窯を開いた。当時横浜から海外に輸出していたのが横浜焼。多くの工房が有田などから生地を取り寄せて絵付けを施し輸出していた。しかし香山は一人で成形から焼き上げるまで自分の窯で行っていたという。香山の武器は、高浮彫という超絶技工。土で厚く浮き上がらせるようにした立体的装飾。陶器の地肌に身近な生き物たちをまるで彫刻のようにかたどっていった。焼物は成形、乾燥、素焼き、釉薬をかける施釉、本焼きを経て完成する。香山の作品作りで最も難しいのは乾燥の際に起きる土の収縮を計算すること。一見簡単に見える葡萄の実も収縮の具合を間違えればバランスが崩れてしまう。その計算の並外れた力量は海外に輸出され驚きと称賛を持って迎えられた。明治9年にはフィラデルフィア万国博覧会を皮切りに数々の賞を受賞。マクズ・ウエアと呼ばれ世界を熱狂させた。海を超えて香山の作品を買い付けに来ることも。香山が好んだのは動植物たちの美しさで、命の輝きだという。
宮川香山の作品の高浮彫長命茸採取大花瓶は高さ50センチで大きな筒状の大きな花瓶を覆ってるのは岩肌。断崖絶壁に訪れた一瞬の秋、その崖にかごにのった男たちがぶら下がっている。大自然の中の人の営みが描かれる。そのきのこはわずか1センチほどのサイズで、男たちの命綱は1.5ミリ。綱の結び目も再現される。

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