華やかな着物を身にまとった日本人形は親善使節として海を渡ることもあったという。始まりは1927年に親日家の宣教師だったシドニー・L・ギューリックはアメリカの子どもたちから日本に約1万3000体の人形が親善のために贈られたこととなっている。当時のアメリカは不況から多くの人が失業する中、低賃金で働く日本人移民への批判が高まり、日本でも扱いを受けて反米の声が上がるなど険悪となっていたことがあり、ギューリックは互いの文化を尊重する精神が育てば対立は起こらなくなると考えて人形を寄贈する試みを行った。日本もこれを受けて58体の市松人形を贈り、全米各地で様々な歓迎イベントも行われるなどした。このイベントの評判を受けて、日本は現在のタイであるシャム国や、ハンガリー、ブラジルなどに日本人形を贈っていった。その中で満州国は清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を執政とした日本の傀儡であり国際社会から孤立を深める状況にあったが、対等の国家であると印象付ける狙いがあったと見られすべての人形の胴には当時文部大臣だった鳩山一郎の筆による共存共栄の文字を木版摺りした紙がはられていた。使節には人形顧問として十世 山田徳兵衛も名を連ねていた。山田によると溥儀は使節団の少女に「風邪をひかぬように」と優しい言葉を懸けたとされる。人形は学校や陸軍病院にも贈られ、19日に及ぶ長旅を行ったとされる。しかし、1945年を迎えると日本の敗戦に伴い満州国は消滅し、人形の行方は不明となっている。そして、依頼品の市松人形にも胴には「共存共栄」の文字が見られ、これまで満州に渡っていた人形は1体も戻ってきていないことから本物であれば大発見となる。