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「日蓮丸」 のテレビ露出情報

太平洋戦争で亡くなった兵士について、軍はどのように戦死したのか詳しく説明しないケースが数多くあった。背景の1つには、日本軍の劣勢を伏せようとしたことがある。戦死した肉親の詳細を知りたいと願いながら79年。ようやく父の最期にたどりついた遺族がいる。福島県西郷村に住む植木潤子さん80歳。父の潤一郎さんが亡くなった4か月後に植木さんは産まれたため会うことはかなわなかった。母のミヤさんや残された家族が父の最期について知らされていたのは限られた情報。父がどんな船に乗って釧路沖のどこでどのように沈没したのかは分からないまま。植木さんはまだきちんと供養できていないのではないかと感じてきた。去年8月偶然、父の最期を知る手がかりに出会う。福島県の地元紙で父と似たような状況で船で戦死した人についての記事を目にした。父が乗っていたのはこの日連丸という船なのではないか。
輸送船・日連丸。1944年3月16日、護衛の駆逐艦などとともに北海道の釧路港を出発した。太平洋戦争後期、戦況が悪化する中、北方の防衛を固めるため千島列島にさらに兵を派遣することになった。しかし、釧路沖で偵察していた米国の潜水艦に攻撃され、日連丸と駆逐艦の2隻が沈没。日本軍の兵士ら2000人以上が命を落とした。こうした状況が明らかになったのは終戦から40年近くたったころ。当時のことを資料にまとめようと1人の遺族が生存者や関係者に呼びかけるまで長い間語られることはなかった。遺体が流れ着いた沿岸の寺では犠牲者の供養や生存者の手当てが行われたが、常に憲兵が監視し、この事実が外に漏れないようにしていたという。地元の人たちも触れてはいけないこととして口を閉ざしてきた。新聞記事をきっかけに資料にたどりついた植木さんは父と同じ福島県出身の兵士が日連丸に乗っていたこと、沈没した正確な場所を初めて知ることになる。さらに犠牲者の供養を行った寺がある厚岸町に慰霊碑があることを知る。ことし6月、植木さんは息子と共に厚岸町を訪れた。慰霊碑を写真に収めて帰るつもりだったが、その2日後に慰霊祭が行われることを耳にする。慰霊祭には植木さんを含め遺族や関係者およそ30人が参列した。父と母の写真とともに花を手向けた植木さん。80年の時を経てようやく心の霧が晴れたと感じている。どのように戦地で亡くなったかなどについて知りたいと現在も年間およそ3000件の問い合わせが国にある。厚生労働省や各都道府県は旧日本軍に所属していた人の資料を本人と遺族に提供している。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年8月15日放送 7:00 - 7:45 NHK総合
NHKニュース おはよう日本(特集)
太平洋戦争で亡くなった兵士について、軍はどのように戦死したのか詳しく説明しないケースが数多くあった。背景の1つには、日本軍の劣勢を伏せようとしたことがある。戦死した肉親の詳細を知りたいと願いながら79年。ようやく父の最期にたどりついた遺族がいる。福島県西郷村に住む植木潤子さん80歳。父の潤一郎さんが亡くなった4か月後に植木さんは産まれたため会うことはかなわな[…続きを読む]

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