終戦からあすで79年。太平洋戦争中、爆弾を積んだ航空機で敵艦に体当たりするため出撃した特攻隊。多くの若者の命が失われた。今の三重県伊勢市に旧日本陸軍の特攻隊が数多く編制された飛行学校があった。地元でもほとんど残されていない特攻隊の記憶。辞世の句を通じて隊員たちの思いを語り継ぐ女性がいる。太平洋戦争末期、出撃を前に特攻隊員たちが書き残した辞世の句。三重県伊勢市の岡出とよ子さんが保管してきた。岡出さんは5歳のころ、父・喜作さんが軍の要請を受けて営んでいた寮で暮らしていた。現在の伊勢市には戦時中、明野陸軍飛行学校があり、その寮で出撃を控えた特攻隊員たちが過ごしていた。岡出さんの家には隊員たちが使っていたものが残されている。岡出さんが覚えているのは毎晩のように別れの宴会が開かれていたこと。翌朝になるときりっとした姿の隊員を父たちと共に見送ったこと。多くの人に特攻隊員の心情を知ってもらいたい。岡出さんは辞世の句が書かれた短冊のレプリカを作成し、解説する冊子とともに資料館などに寄贈してきた。岡出さんの活動で特攻隊を志願した家族の姿を知ることができた男性がいる。伊勢市の中西幸一さん。岡出さんの活動を伝える新聞記事に書かれたある句に目が留まった。9年前に亡くなった義理の父、宮村和足さんの句だった。父が残したアルバムを見ると飛行学校で撮った写真があった。特攻隊を志願したが、採用されなかったと記された直筆の記録も。出撃を前にした特攻隊員たちの心に近づきたい。岡出さんは先月、伊勢で訓練を受けた隊員たちが沖縄に向けて飛び立った鹿児島県の知覧を訪れた。資料館に並ぶ特攻隊員たちの遺影。その中には岡出さんのもとに句が残る隊員たちの写真もあった。