東京・中央区の常盤小学校の地下には81年前の空襲の避難場所として使われた防空壕が残っている。東京大空襲では1600トン以上の焼夷弾により街が炎に包まれ、約10万人が死亡した。国は学校だけでなく一般家庭にも防空壕を作らせた。防空壕は“人の命を守るためのもの”と思われていたが、当時の文書には防空壕について「応急的退避施設」と書かれていた。国民は防空法で逃げることを禁じられ、消火が義務付けられていた。防空壕は消火のために一時待機する場所に過ぎなかった。国は「焼夷弾は怖くない。簡易的な防空壕で事足りる」と情報統制した。空襲時に防空壕から逃げた二瓶治代さんは隣の家の家族が防空壕の中で亡くなったのを目撃したといい、「国は国民の命を守ることをしなかった」などと話した。
