WBC日本代表前監督・栗山英樹にインタビュー。北海道栗山町を訪問。栗山の自宅は高台の上にあった。東京出身の栗山が栗山町を訪れたのは野球が繋いでくれた縁だった。幼い頃から野球好きだった栗山は高校・大学と目立った活躍はできなかったが、入団テストを受けプロ入り。しかし、入団まもなくめまいを伴う病に苦しみ29歳で引退した。引退後の夢は子どもが野球を楽しめる球場を作ること。映画「フィールド・オブ・ドリームス」の舞台となった野球場を見にアメリカ・アイオワ州へ行った際、台湾・日本・アメリカの子どもが一緒に野球をやりだしたのを見て感動を覚えたという。「ことばが通じないのに人が友達になって野球の試合ができちゃうわけじゃないですか。環境とスポーツってすごい力があるんだって思ったんですよねその瞬間に」と栗山は語った。日本でもそういった場所を作りたいと思っていた矢先、栗山町のJC30周年企画で栗山姓の人々を集めて開催するイベントから招待を受けた。そこで球場作りに対する思いを熱弁。多くの町民がその熱意に心を動かされ、本格的に球場の建設が始まった。栗山では扱えない重機での作業などを町民が担い、少しずつ夢が形に。3年後、子どもたちのための夢のフィールドとなる野球場が完成した。
野球場が完成した9年後の2011年、栗山は北海道日本ハムファイターズの監督に就任。引退後はスポーツキャスターとして活躍していた栗山には「指導者経験のないものに監督が務まるのか」と心無い声もあった。栗山自身も自分に監督が務まるわけがないと思い、一度は断ったが、球団側から「野球と選手を愛して全力を尽くしてくれる方」と改めてオファーを受け受諾。さらに栗山は「この球場を造ったのはあると思いますね。こんだけ野球好きで野球のこういうものを造るくらい野球好きだったらこの人にやらせようかなっていうふうに思った可能性はあると思いますけど」と語った。監督就任後、日本ハムはリーグ優勝2回、日本一も達成。10年の監督生活の中では最下位に沈んだこともあった。退任前の3年間はすべて5位。勝てない日々が続いたことについて栗山は「どんなに頑張っても結果が出ないことがあるんだっていうのを嫌というほど味わった3年間になった」と振り返った。監督就任後も在住したのは札幌ではなく栗山町。当初は札幌に拠点を置くことも考えたが、家から球場まで頭の切り替えがうまくできず断念。栗山町の自然に囲まれた空間で一旦リフレッシュすることで心を整え球場に向かっていたという。
栗山の下で投打二刀流として活躍した大谷翔平選手。前例のない二刀流の育成は栗山町で一から野を開き「無理だ」と言われた野球場を築き上げた経験から「やってみなければやれるかどうかなんて誰もわかんない」という思いが影響したという。町内の至る所には栗山ゆかりの品々が。監督時代は開幕前、町民が毎年出陣式を開催。栗山は「いっしょに戦ってくれてる感じがしてありがたかったですしいろんな意味で背中を押してもらったし頑張れた」と振り返った。2023年にはWBC優勝を記念したパレードが町内で開催。手作りの優勝パレードで栗山が乗ったのは軽トラック。高所作業車から紙吹雪が巻かれる中、町民とともに喜びを分かち合った。子どもたちの未来を野球場で思い描いてきた中で新たな取り組みも開始。栗山高校の女子野球部を設立した。町を巻き込んだプロジェクトとなり、全国から42人の部員が集まった。栗山は「僕が感じているように人と人が困った時に助け合える、それが温かさだったり住みやすさだったりするっていう、本当に小さくてもいいから持続させていくっていうことが必要なのかなって」と語った。
野球場が完成した9年後の2011年、栗山は北海道日本ハムファイターズの監督に就任。引退後はスポーツキャスターとして活躍していた栗山には「指導者経験のないものに監督が務まるのか」と心無い声もあった。栗山自身も自分に監督が務まるわけがないと思い、一度は断ったが、球団側から「野球と選手を愛して全力を尽くしてくれる方」と改めてオファーを受け受諾。さらに栗山は「この球場を造ったのはあると思いますね。こんだけ野球好きで野球のこういうものを造るくらい野球好きだったらこの人にやらせようかなっていうふうに思った可能性はあると思いますけど」と語った。監督就任後、日本ハムはリーグ優勝2回、日本一も達成。10年の監督生活の中では最下位に沈んだこともあった。退任前の3年間はすべて5位。勝てない日々が続いたことについて栗山は「どんなに頑張っても結果が出ないことがあるんだっていうのを嫌というほど味わった3年間になった」と振り返った。監督就任後も在住したのは札幌ではなく栗山町。当初は札幌に拠点を置くことも考えたが、家から球場まで頭の切り替えがうまくできず断念。栗山町の自然に囲まれた空間で一旦リフレッシュすることで心を整え球場に向かっていたという。
栗山の下で投打二刀流として活躍した大谷翔平選手。前例のない二刀流の育成は栗山町で一から野を開き「無理だ」と言われた野球場を築き上げた経験から「やってみなければやれるかどうかなんて誰もわかんない」という思いが影響したという。町内の至る所には栗山ゆかりの品々が。監督時代は開幕前、町民が毎年出陣式を開催。栗山は「いっしょに戦ってくれてる感じがしてありがたかったですしいろんな意味で背中を押してもらったし頑張れた」と振り返った。2023年にはWBC優勝を記念したパレードが町内で開催。手作りの優勝パレードで栗山が乗ったのは軽トラック。高所作業車から紙吹雪が巻かれる中、町民とともに喜びを分かち合った。子どもたちの未来を野球場で思い描いてきた中で新たな取り組みも開始。栗山高校の女子野球部を設立した。町を巻き込んだプロジェクトとなり、全国から42人の部員が集まった。栗山は「僕が感じているように人と人が困った時に助け合える、それが温かさだったり住みやすさだったりするっていう、本当に小さくてもいいから持続させていくっていうことが必要なのかなって」と語った。
住所: 北海道夕張郡栗山町湯地22-25
URL: http://www.sponichi.co.jp/kuriyama/
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