岡山県倉敷はれんめんと受け継がれてきた町並みが奇跡のように残される。倉敷市の美観地区は、貿易と繊維産業で栄えた豪壮な邸宅や商家が軒を連ね歴史的景観として、多くの観光客を集めている。更に美術館が立ち並ぶ日本屈指のアートの町で、路地を一歩入れば、歌川国芳の作品だけを集めたUKIYO-E KURASHIKI/国芳館が。2021年に生まれたこの美術館は古い旅館を改装した。土足厳禁だがその理由は和室があり、国芳ファンの館長が個人的に収集した浮世絵が100点あまり。歌川国芳の魅力とはそば1杯の値段で購入できる身近な浮世絵に無限の可能性を秘めたことなど。その集大成が2階にあり、窓から街が一望できるが額縁に収まった絵画のよう。今日の作品の源頼光館土蜘作妖怪図は歌舞伎の当たり狂言で頼光と家臣の四天王が土蜘蛛を退治するという話だが、土蜘蛛の下で寝床の頼光がまどろむ様子が。四天王も囲碁に興じてやる気がない。背後では、もののけたちが二手にわかれ合戦を繰り広げている。この摩訶不思議なシチュエーションこそが国芳の大いなる狙い。江戸の昔から今日まで謎解きが行われるいわくつきの傑作。
歌川派の広重の雨は情緒と品があるが、それに対し国芳の夕立は集中豪雨の土砂降り。さらに広重は東海道五十三次之内 日本橋 朝之景で晴れ晴れとした爽快な日本橋の絵を描いたが国芳は本朝名橋之内江都日本橋略図は人がすし詰めの状態で日本橋を描いた。江戸城のお膝元の日本橋にほど近い場所で寛政9年の本銀町の染物屋に生まれた国芳は幼い頃から絵がうまく、15歳で歌川豊国の門下に。しかしそれから鳴かず飛ばずで23歳頃の浮世絵師番付では、行事の一人は葛飾北斎だが、最高位の大関は歌川豊国。国芳は前頭27枚目だった。発奮した国芳は死にものぐるいで画報を研究し31歳の時に江戸っ子の人気をさらう。
歌川派の広重の雨は情緒と品があるが、それに対し国芳の夕立は集中豪雨の土砂降り。さらに広重は東海道五十三次之内 日本橋 朝之景で晴れ晴れとした爽快な日本橋の絵を描いたが国芳は本朝名橋之内江都日本橋略図は人がすし詰めの状態で日本橋を描いた。江戸城のお膝元の日本橋にほど近い場所で寛政9年の本銀町の染物屋に生まれた国芳は幼い頃から絵がうまく、15歳で歌川豊国の門下に。しかしそれから鳴かず飛ばずで23歳頃の浮世絵師番付では、行事の一人は葛飾北斎だが、最高位の大関は歌川豊国。国芳は前頭27枚目だった。発奮した国芳は死にものぐるいで画報を研究し31歳の時に江戸っ子の人気をさらう。