マバラカットから神風特別攻撃隊は出撃していった。特攻は隊員が生きたまま体当たり攻撃をしていく作戦だった。慰霊碑には自ら志願したことを示すボランティアの文字が刻まれている。ダレがなぜ何の の作戦を実行したかを明らかにしなければならない。水交会では海軍の反省会が開かれ、初めて特攻についての議論が行われた。三代元大佐が所属していた軍令部は作戦を立案し天皇が持つ統帥権を補佐する機関だった。鳥巣元中佐は軍令部の指示に従って隊員を送り出していた。なぜ特攻兵器の開発に踏み切ったのか?絶対国防圏がトラック空襲で壊滅的な打撃を受けた。中澤佑元中将の手記を紹介した。
特攻兵器を進言したのは黒島亀人元少将だった。黒島亀人元少将の第二部は兵器の研究を担当していた。真珠湾攻撃の時に山本司令長官の参謀を努めていたのが黒島元少将だった。特攻兵器の開発は次々に進んでいった。訓練では死亡事故が相次いだ。昭和19年8月に「回天」は正式採用された。坂本さんは基地に近づく船から兵器を初めて見て当時のことを話した。自分の体を兵器に変える訓練がされたという。
軍令部からの指示が現場で実行されていった。送り出す直前に撮られた写真には鳥巣元中佐が写っていた。この特攻で隊員89人が死亡した。高松さんは慰霊祭で鳥巣元中佐が生き残った隊員から責められる場面を目撃した。反省会で軍令部を追求した鳥巣元中佐。これに対して軍令部に在籍したメンバーは多くを語らなかった。第42回「反省会」では軍令部が最初の神風特攻隊を利用してある戦略を考えていたことがこの日明らかになった。発言したのはこの時も鳥巣元中佐だった。昭和19年10月に神風特攻隊は初めて体当たり攻撃を行った。航空作戦を担当していた源田元大佐だった。主力艦艇のほとんどを投入して臨んだ決戦だった。
第94回「反省会」では議論が行われた。軍令部で航空作戦の参謀を努めた三代元大佐。特攻は現場の熱意から始まったと語った。昭和20年1月25日に最高戦争指導会議が行われ、その後太平洋の海に若者たちが散っていった。昭和20年8月15日に終戦となった。連合国軍最高司令官総司令部による戦争犯罪を追求する動きが始まった。これに対し軍令部は終戦直後から戦犯裁判に向けた準備を進めていた。現場の幹部たちは戦後もその責任を感じ続けていた。
現場に特攻を指示した軍令部だが、軍令部が組織としての責任を認めた史料は見つけることは出来なかった。特攻の議論が行われている時、扇一登元大は「組織全体が新兵器に頼るかたちに流されたのではないか?」と語った。中澤佑元中将の息子・忠久さんは父親が軍令部一部長だったときに語った言葉を今も覚えている。反省会で軍令部を批判し続けた鳥巣元中佐は戦時中を振り返り家族に「思っていても言いたいことがあっても口には出せないことがある」と言い残していた。角田和男さんは特攻で戦死した仲間の慰霊を今も続けている。角田さんが最後を見届けた廣田幸宣さんの両親への遺書などを紹介した。特攻は決して命じてはいけない作戦だと心の中では分かっていたがその言葉が表に出ることはなかった。
特攻兵器を進言したのは黒島亀人元少将だった。黒島亀人元少将の第二部は兵器の研究を担当していた。真珠湾攻撃の時に山本司令長官の参謀を努めていたのが黒島元少将だった。特攻兵器の開発は次々に進んでいった。訓練では死亡事故が相次いだ。昭和19年8月に「回天」は正式採用された。坂本さんは基地に近づく船から兵器を初めて見て当時のことを話した。自分の体を兵器に変える訓練がされたという。
軍令部からの指示が現場で実行されていった。送り出す直前に撮られた写真には鳥巣元中佐が写っていた。この特攻で隊員89人が死亡した。高松さんは慰霊祭で鳥巣元中佐が生き残った隊員から責められる場面を目撃した。反省会で軍令部を追求した鳥巣元中佐。これに対して軍令部に在籍したメンバーは多くを語らなかった。第42回「反省会」では軍令部が最初の神風特攻隊を利用してある戦略を考えていたことがこの日明らかになった。発言したのはこの時も鳥巣元中佐だった。昭和19年10月に神風特攻隊は初めて体当たり攻撃を行った。航空作戦を担当していた源田元大佐だった。主力艦艇のほとんどを投入して臨んだ決戦だった。
第94回「反省会」では議論が行われた。軍令部で航空作戦の参謀を努めた三代元大佐。特攻は現場の熱意から始まったと語った。昭和20年1月25日に最高戦争指導会議が行われ、その後太平洋の海に若者たちが散っていった。昭和20年8月15日に終戦となった。連合国軍最高司令官総司令部による戦争犯罪を追求する動きが始まった。これに対し軍令部は終戦直後から戦犯裁判に向けた準備を進めていた。現場の幹部たちは戦後もその責任を感じ続けていた。
現場に特攻を指示した軍令部だが、軍令部が組織としての責任を認めた史料は見つけることは出来なかった。特攻の議論が行われている時、扇一登元大は「組織全体が新兵器に頼るかたちに流されたのではないか?」と語った。中澤佑元中将の息子・忠久さんは父親が軍令部一部長だったときに語った言葉を今も覚えている。反省会で軍令部を批判し続けた鳥巣元中佐は戦時中を振り返り家族に「思っていても言いたいことがあっても口には出せないことがある」と言い残していた。角田和男さんは特攻で戦死した仲間の慰霊を今も続けている。角田さんが最後を見届けた廣田幸宣さんの両親への遺書などを紹介した。特攻は決して命じてはいけない作戦だと心の中では分かっていたがその言葉が表に出ることはなかった。
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