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「深浦町民体育館」 のテレビ露出情報

リンゴ娘が育った青森県・弘前市。2000年に作られた小さな養成所には11歳から17歳の地元の子供達が日々レッスンに励んでいる。ステージに立ちたいと子どもたちの夢になっていた。プロデューサーの樋川新一さんの本業は自動車販売会社の社長。父親が1代で築いた会社を引き継いだ。その日課はお客用のトイレの掃除。その原点は都会への強烈の憧れと反抗心。テレビ局を働くことを夢見て、大学は東京へ。しかし希望は叶わず別の業態に就職。5年で地元に戻った。街は寂れていたが愚痴をこぼして終わりたくはないとアイドルを作ろうと考えた。新聞やコミュニティラジオなどでメンバーを集めりんご娘を結成した。しかし思わぬ誹謗中傷に、若い女性で金儲けをしているなどと揶揄され、メンバーも次々にやめていったという。
そこで樋川さんはメンバーの人間教育を行うことに。指導を仰いだのは小学校の吹奏楽部の顧問だった藤本盛三さん。良い演奏は折り目正しい日常生活からという考えで、教え子たちを 全国大会にまで導いていた。10年間りんご娘として活動していた初代ジョナゴールドさんは11歳で養成所に入り、予想外のレッスンに驚いた。礼儀作法を3時間みっちり教わったという。樋川さんは歌に積極的に津軽弁を取り入れた。歌詞には青森県の特産の数々を盛り込み、本気で青森県を応援していると周囲の見る目も変わった。
活動10年をすぎると、りんご娘は弘前市のりんごPRの公式なスポットを任せられるようになった。メンバーの地元意識も変わっていったという。弘前市生まれの王林は9歳で養成所に入った。地元青森のことは好きでも嫌いでもなく、都会でファッションモデルをしたいと考えていた。しかし青森中をまわり地元の人たちと触れ合ううちに気持ちに変化が。王林は自分の育った場所以外の青森を見てまわり、いいところだと思うようになったという。2016年にりんご娘は全国から242組が参加するアイドルコンテストに挑戦し、頂点に立った。王林はアイドルとして青森での活動を認めてくれたことが嬉しく、もし青森ではなかったらアイドルをしていなかったと答えた。樋川さんは青森に生まれて最悪と思っていた自分がいて、りんご娘のメンバーにはすごいと感じたという。
10年前からリンゴ娘の楽曲を手掛ける多田慎也さん。嵐やAKB48などメジャーアーティストに楽曲を提供してきた。多田さんは愛踊祭2の審査員もしていたが、りんご娘は青森を本当に愛していて、広めたいという思いが真っ直ぐだったという。オーディエンスが見えての作曲作りは作曲家冥利に尽きるという。お山参詣はサイギサイギとかけ声をするが、この声を歌にした。人気が全国区になった今も、りんご娘は青森を元気にするためにあるという信念は失っていない。1万人ライブを前に、青森県全市町村をアピールするために作ったポスターは勝手に作って勝手に配布。スタンプラリーも開始し、多くの観光客を市町村に呼んだ。ライブには青森県の40市町村が駆けつけた。
養成所開いて26年。多くの子どもに門を開こうと今も月謝は無料。しかし時には折れかけたこともあり、父親は生前アイドル活動に反対していたという。リンゴ農家の高橋哲史さんは、100年以上続く農家を29歳で継いだ。津軽の厳しい冬を乗り越えて実をつけるりんごの木を見続けてきた。そんなとき高橋さんが樋川さんに、木が1人前になるまで20年かかると伝えた。その間も決して順調に育つのも難しくアクシデントがあり、その中で強くなっていくという。6年前に新型コロナウイルスですべてのライブがキャンセルになったのをきっかけに始めたことがある。それがりんごの栽培。選定から収穫前メンバー自身が行っている。ニ代目ジョナゴールドさんはりんご娘の黄金期を支えたメンバー。リンゴのことがもっと知りたくて農業を学んだ。樋川さんはこれからも実直に青森を応援するアイドルでいれば、結果多くの人に愛されると答えた。
住所: 青森県西津軽郡深浦町大字広戸字家野上95-201

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