2011年、大阪に手術におわれる1人の医師がいた。根本慎太郎は正確なメスさばきで小さな心臓たに立ち向かっていた。悩みは再手術に苦しむ患者だった。パッチの交換で何度も負担をかけることが心苦しかった。根本は次男の諭くんを腎臓がんで亡くしていてた。8歳までに手術を9回して亡くなったという。病と戦った我が子に胸をはれるように根本は伸びるパッチの開発に挑むと決意した。まず最初に共に開発するメーカーを探した。何十社と電話してもリスクが大きいと断られ続けた。そんな中、ある新聞に目が止まった。福井の町工場が技術力を活かし医療分野への挑戦をはじめたという。根本は工場を訪ねた。出迎えてくれたのは繊維一筋の高木義秀だった。高木義秀は新たな挑戦をしないと生き残れないと思っていたので根本の依頼を受け入れた。開発を任されたのは、山田英明。山田は1993年に入社。しかし大企業に務める友人との差に落胆していた。やりがいを見いだせずにいた時、上司の竹村吉崇に面白いものを見せてやると声をかけられた。サンプル室に連れていかされ10万点の生地を見せてもらった。糸の種類や網目の設計、ほんの僅かな違いで、柄も手触りも伸び方もすべてが変わっていた。山田は無限の可能性に気付かされ自分だけの編み方を生み出したいと思った。山田は心臓パッチへの挑戦に磨いてきた技術を注ぎ込むと決めた。
2013年8月、第1回開発会議が開かれた。根本は縦横2倍に伸びる生地を作ってくれと求めた。開発メンバーたちは耳を疑った。心臓などを治療する機器は約7割が海外製。リスクが高く時間もかかる開発は大手企業もほとんど手を出してこなかった。
2013年8月、第1回開発会議が開かれた。根本は縦横2倍に伸びる生地を作ってくれと求めた。開発メンバーたちは耳を疑った。心臓などを治療する機器は約7割が海外製。リスクが高く時間もかかる開発は大手企業もほとんど手を出してこなかった。