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「第五福竜丸」 のテレビ露出情報

坪井直樹アナウンサーが「ゴジラ・THE・アート展」を取材する。去年、卓越したCGやVFXで第96回アカデミー賞視覚効果賞を受賞しアジア映画初の快挙を成し遂げた「ゴジラ-1.0」。日本が世界に誇るムービースターのゴジラは去年、生誕70周年を迎えた。これまで日本では30作品以上が制作され、シリーズ累計観客数は1億人を突破。誰もが知るゴジラを現代アーティストが様々な形で表現する企画展が六本木の森アーツセンターギャラリーで開催されている。アート展のゼネラルプロデューサーは解剖学者・養老孟司。養老は「時代の空気の象徴として、ゴジラを現代に更新し続けられること自体が、ゴジラの概念が強靭であることの現れだ」とメッセージを寄せている。1954年に第一作が公開されたゴジラ。誕生の背景にはこの年の3月、アメリカが太平洋のビキニ諸島で水爆実験を行い、第五福竜丸が被爆するという日本にとって衝撃的な事件があった。核や戦争、行き過ぎた文明への批判がメッセージとして込められていた。掛け軸のゴジラとメカゴジラについて東宝ゴジラルーム・宮崎豪は「ゴジラは人智を超えた神に近い存在として描かれた作品かなと思う」などと述べた。ゴジラを地獄の門のように表現している作品などもあり坪井は「ゴジラを取り巻く振れ幅の広さ、これが魅力の一つ」などとコメントした。ゴジラに欠かせないのが特撮技術。実際の街並みを再現することでリアルを追求している。公開当時の話題の場所やランドマークを数多く破壊しているのも面白さのポイント。1991年公開の「ゴジラVSキングギドラ」では当時完成したばかりの東京都庁とその周辺を粉々にした。精巧に作られたミニチュアの技術は今活躍するアーティストにも影響を与えている。スウェーデンのアーティスト・東京ビルドはゴジラ作品の街並みに感動して作品を作っている。東京ビルドと東宝映像美術がコラボしたジオラマも見ることができる。ゴジラ映画で使用されたセットも使用している。思い出に残っている作品について坪井は「キングコング対ゴジラ。クスッと笑えるような面白いシーンが多い」、宮崎は「ゴジラは時代を映す鏡とも言われている」などと述べた。横尾忠則は今回の展示のために過去の作品を破壊して組み立て直して再生した。宮崎は「明確な定義が定まっていないのがゴジラの独自性」などと話した。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年12月29日放送 9:54 - 16:30 TBS
報道の日テレビ報道70年 8つの禁断ニュース
1953年、ニューヨーク国連本部での米国・アイゼンハワー大統領(当時)の演説から始まった。米ソ冷戦の只中に呼びかけられた原子力の平和利用。真の狙いはソ連を牽制し核開発で優位に立つことだったとアメリカン大学歴史学・ピーターカズニック教授は分析した。1954年3月、太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行った米国。第五福竜丸の乗組員23人が被ばくした(のちに1人が死亡)[…続きを読む]

2024年12月26日放送 10:25 - 13:00 テレビ朝日
大下容子ワイド!スクランブルNEWSドリル
被爆者を描いたアイスランドの映画「TOUCH/タッチ」が、2025年1月24日(金)に日本でも公開される予定。アイスランド人の主人公・クリストファーが、50年前に恋に落ち、突然姿を消した日本人女性・ミコ(Koki,)を探して旅をする。ミコが「被爆者」であることを告白するシーンもある。コルマウクル監督は「若者が広島、長崎の歴史を十分に認識していないと感じている[…続きを読む]

2024年12月10日放送 3:45 - 4:30 TBS
TBS NEWS(ニュース)
ノーベル平和賞授賞式が行われるのを前に日本被団協の結成当時を知る97歳の被爆者・阿部静子さんににインタビューをした。阿部静子さんは結婚して間もない18歳のとき広島で被爆。原爆の熱戦で顔や右半身に大やけどを負った。当時広島の被爆者は原爆の放射線による障害や差別、貧困に苦しみながらひっそりと生きていた。流れが変わったのは被爆から10年後の1954年米国の水爆実験[…続きを読む]

2024年12月9日放送 10:25 - 13:55 TBS
ひるおびJNN NEWS
あすノーベル平和賞授賞式が行われるのを前に日本被団協の結成当時を知る97歳の被爆者・阿部静子さんににインタビューをした。阿部静子さんは結婚して間もない18歳のとき広島で被爆。原爆の熱戦で顔や右半身に大やけどを負った。当時広島の被爆者は原爆の放射線による障害や差別、貧困に苦しみながらひっそりと生きていた。流れが変わったのは被爆から10年後の1954年米国の水爆[…続きを読む]

2024年10月26日放送 12:40 - 12:45 NHK総合
Nスペ5min.(Nスペ5min.)
1958年7月12日第4の被曝があった。アメリカが核実験を繰り返していた太平洋の危険区域のそばを通った海上保安庁の測量船と巡視船に乗っていた乗組員が放射線をあびた。放射線をあびた永野さんは被曝から1年後急性骨髄性白血病で亡くなった。永野さんの妻は国の役人から口止めされたことを覚えている。被爆した1958年は日米安全保障条約改定交渉が行われていた。

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