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「ダーウィンの進化論」 のテレビ露出情報

アメリカへの移民を乗せた船は、エリス島へと向かった。第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパからアメリカへの移民は急増した。移民たちは、エリス島でアメリカに中世を誓い、入国検査に合格して初めてマンハッタンへ渡ることができた。
1919年春、第一次大戦が終わって半年、マンハッタンの目抜き通りでは連日のようにヨーロッパ大陸から帰還した兵士たちの凱旋パレードが続いていた。続々と帰還する兵士の中に地獄の勇者たちと呼ばれた黒人兵だけの部隊があった。369連隊に所属するの軍楽隊は戦地でジャズを演奏し一躍有名になった。帰国した黒人たちの多くはハーレムに住んでいた。この頃、ハーレムでは自分の育てた音楽・ジャズをクラブやキャバレーで演奏するようになっていた。キャブ・キャロウェイやデューク・エリントンの映像を紹介した。マンハッタンの摩天楼建設は1900年頃に始まり20年代には建設ラッシュを迎えていた。
1919年1月、第一次世界大戦の戦後処理を行うベルサイユ会議がパリで始まった。会議には27か国が参加したが実質的な主役はイギリス、フランス、アメリカだった。アメリカの第28台大統領ウィルソンは国際連盟という世界の新秩序となる構想を抱えてパリに乗り込んだ。連合国を勝利に導いたウィルソンはヨーロッパでは人気だったがアメリカ位の議会は支持しなかった。アメリカは世界の紛争に関わるべきではないとし条約批准を否決。国際連盟にも参加しないことを決定。以後、アメリカは経済的な国力の増大に務めた。1921年5月、イギリスに到着した裕仁親王。この皇太子訪欧は世界に日本の存在を誇示する機会でもあった。
戦場から引き上げてきた若者たちはマンハッタンを変えていった。若者たちの間で爆発的に流行したのがチャールストンだった。こうしたダンスや音楽の急激な広まりはラジオだった。ラジオ放送は1920年の秋、世界で初めてアメリカ東部の街・ビッツバーグで始まった。とりわけ時代の変化に敏感だったのは女性。短い髪とスカートが流行、美顔術やパーマネントの発明。美容師が高額納税者に名を連ねるようになった。マンハッタンでは地下鉄の工事が始まった。この時代には都市に流入する移民が溢れ、仕事に携わることができても、賃金は驚くほど安かった。
1926年までの7年間、世界ヘビー級のチャンピオンで有り続けたジャック・デンプシー。ジャック・デンプシーはスポーツ興行の世界で初めて100万ドル試合を行った。1926年秋のデンプシーの試合を伝えたラジオ放送では、興奮したリスナー10人が心臓麻痺で死亡したという。20年代を代表するもう1人のヒーロはベーブ・ルース。ラジオで放送されたベーブ・ルースとルー・ゲーリックの会話が録音に残されていた。ブロードウェイがミュージカルの中心となっていったのものこの時代だった。
ニューヨークの労働者によるデモの映像。20年代の始めはアメリカ史上、最もストライキの多い時期だった。1920年代に起こったウォール街でのテロ事件の映像。モルガン商会が何者かに爆破された事件、この犯行は証拠もなく共産主義者にせいにされ大衆の恐怖を駆り立てた。共産主義者追放の先頭に立ったのがミッチェル・パーマー司法長官だった。ミッチェル・パーマー司法長官は1920年の元日に、合衆国全土でアナキストと目される人々4000人を検挙。しかし実際に出てきたのはピストル3丁だけだった。クー・クラックス・クランは19世紀、テネシー州に生まれた秘密結社で、白人のアメリカ人を優秀な人種と考え、黒人、ユダヤ人、共産主義者などを否定する組織だった。1922年ごろには、あらゆる階層の白人500万人がKKKの会員だったと言われている。オクラホマ州のタルサで発生した、大規模な白人による黒人襲撃の映像。黒人は公園にもレストランにも入れなかったという。大衆の中に排他主義がうずまいていたころボストンで起きた小さな事件が、世界の注目を浴びた。殺人事件の犯人にされたのがサッコとヴァンゼッティ2人のイタリア移民だった。2人は証拠不十分のまま逮捕され死刑の判決を受けた。2人への裁判が偏見と人種差別による冤罪であったことが認められるのは50年後の1977年のことだった。
1920年1月17日、アメリカ全土に禁酒法が施行された。全米で施行されることになった理由は、戦争という非常時のために穀物を節約しなければならなかった事、ビール業者の多くがドイツの出身者だったことなどが背景にある。しかし当時の政治家にとって、禁酒法の真の狙いは、移民労働者の飲酒の習慣を取り締まることにあったと言われている。この時代、悪質な密造酒が出回り1500人以上が死亡したと記録されている。密造酒の製造やモグリ酒場の経営は、犯罪組織に莫大な資金をもたらした。禁酒法が賭博、売春、殺人などギャングの横行を許していった。
1923年9月1日、関東大震災に襲われた東京の映像。東京の死者・行方不明者は合わせて10万7500人余で全体の7割の家屋が焼失した。1924年、6月24日、移民船シベリア丸の映像。このとしアメリカでは移民を制限する法律が制定され、日本人移民は7月1日をもって全面禁止された。1925年、ジョセフィン・ベーカーはパリでアメリカの大衆文化を強烈に印象づけた。1920年代後半のドイツではヒトラーが大衆の支持を獲得していた。イタリアのベニート・ムッソリーニはこの時すでに一党独裁の政治体制を確立していた。
1920年代後半に入ると人々はラジオや新聞、ニュース映画を通して大量の情報を同時に受け取ることになり、それが社会を動かす決定的な要因となる。1927年のニューヨークのせわしなさはヒステリーの一歩手前とひ評すべきものだった。20年代後半、アメリカ大衆の大きな関心の一つは株式市場の動向だった。あらゆる階層の人が株を買い、ラジオの株式市況に耳を傾けた。大衆が株価の暴落など予想もしなかったのは自分たちの周りに満ち溢れていた豊かな生活と好景気への信頼だった。1927年の第1週には株の取引高が史上最高を記録した。建築ブームは大都市の郊外にも及んだ。自動車の普及で通勤圏や行動範囲が広がったことが主な理由だった。家庭電化製品の開発により主婦に自由な時間が生まれた。通信販売の登場で地方でもマンハッタンでも同じファッションをすることができるようになった。その一方で農村は悲惨な状態にあった。戦争中の増産のための過剰な設備投資をしていた農家が、農産物価格の下落など、一気に不況に陥った。地方銀行は焦げ付いた貸付によって経営危機に陥った。豊かになった大衆が好奇心のはけ口をラジオに求めるようになった。1920年代後半にラジオを通じて大衆の好奇心をそそった3つの出来事、その1つ目はハリウッド俳優ルドルフ・バレンチノの死だった。もう一つはケンタッキーの若者が洞窟探検中に落盤に見舞われ脱出できなくなった事件、全米のメディアは20日間に渡って彼が衰弱して死に至る様子を克明に伝え続けた。洞窟での遭難事故から5ヶ月後、一つの裁判が行われた。当時テネシー州ではダーウィンの進化論を教えることを禁止していた。高校教師のジョン・スコープスとドラッグストアの店主は自分たちの町がマスコミに取り上げられ、一躍有名になると画策しあえて法律を犯したのだった。町には裁判を傍聴しようと多くの人々が集まった。裁判は全米に公開され、12日間に渡って行われた。結果として進化論を教えた教師ジョン・スコープスは有罪、罰金100ドルとなった。なお進化論を教えてはならないという法律が廃止されるのは1968年のことだった。
1928年11月に昭和天皇の即位式が行われた。この頃の東京を割烹するモダンガール、アメリカ式ショートヘアが流行した。1927年12月に日本で初めての地下鉄が上野浅草間で開通した。当時満州に住む日本人は約23万人で日露戦争以降移住した人たちであった。ツィッペリン号が日本にやってきた。霞ヶ浦の歓迎式典には10万人の群衆が集まった。この年芥川龍之介は自殺する。
チャールズ・リンドバーグ出発のニュースが伝わるとアメリカ中に興奮が沸き起こった。睡魔と戦いながらの33時間30分夜10時過ぎにパリに到着した。リンドバーグを帰国させるためにクーリッジ大統領が合衆国海軍の軍艦を差し向けた。リンドバーグを称える紙吹雪はマッチ1本でマンハッタンが火事となると言われたほど前例のないものであった。彼が大衆のスーパーヒーローになったのはその偉業に加え自らを宣伝することのない控えめな態度にあった。人々は堅実な貯蓄には見向きもせず株を買い続けていた。1929年に株価は突然大暴落した。5日後それを上回る株価の総崩れが起きた。

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