奈良県三郷町に住む高田さんは元気いっぱいで、駅から2キロの急な坂道を登ったところに、40年ほど前から住んでいる薫さんの家がある。朝はゆっくり起きて、腹ごしらえ。この日は一緒にクラス長男が昼ご飯を作ったがパスタを食べたが何でも食べると答えた。
家事を終えるとソファでまったりして眠りについていた。また薫さんは月に2回向かう場所に原付きで向かう。バイク歴は40年以上で向かった先はピアノ教室。25年ほどまえから同じ講師から教えてもらっている。その右手の3本の指は手術後に感覚がなくなったというがその手でピアノを弾いている。
70代後半になり乳がんが発覚。手術をして完治した。101年生きてたどり着いた心構えがあるという。くよくよしてもしょうがないと語り、感謝して幸せにいけたらいいと答えた。薫さんは1924年に東京生まれ9人きょうだいの末っ子だったという。小学校を卒業したあとはいまの中学・高校にあたる女学校に入学した。卒業後には保育士になるための学校に進学し、当時のことを覚えているという。しかし昭和6年に太平洋戦争が始まった。そのために凄惨な光景も目の当たりにしたという。
昭和20年に21歳のときに終戦を迎え25歳で結婚し3人の子供に恵まれた。50代のときには夫の転勤でアメリカへ。91歳でファッションショーに出場するなど様々なことを経験してきた。まだやりたいことがあるというが、母校の小学校にいってみたいと答えた。最愛の夫は14年前に死去。兄弟もまた1人1人の亡くなっていったという。最後まで生きていた7歳年上のお姉さんも12年前に亡くなった。長生きをすればするほど悲しみの経験も増えていく。嬉しいことがあったあとほど寂しさを感じるという。
家事を終えるとソファでまったりして眠りについていた。また薫さんは月に2回向かう場所に原付きで向かう。バイク歴は40年以上で向かった先はピアノ教室。25年ほどまえから同じ講師から教えてもらっている。その右手の3本の指は手術後に感覚がなくなったというがその手でピアノを弾いている。
70代後半になり乳がんが発覚。手術をして完治した。101年生きてたどり着いた心構えがあるという。くよくよしてもしょうがないと語り、感謝して幸せにいけたらいいと答えた。薫さんは1924年に東京生まれ9人きょうだいの末っ子だったという。小学校を卒業したあとはいまの中学・高校にあたる女学校に入学した。卒業後には保育士になるための学校に進学し、当時のことを覚えているという。しかし昭和6年に太平洋戦争が始まった。そのために凄惨な光景も目の当たりにしたという。
昭和20年に21歳のときに終戦を迎え25歳で結婚し3人の子供に恵まれた。50代のときには夫の転勤でアメリカへ。91歳でファッションショーに出場するなど様々なことを経験してきた。まだやりたいことがあるというが、母校の小学校にいってみたいと答えた。最愛の夫は14年前に死去。兄弟もまた1人1人の亡くなっていったという。最後まで生きていた7歳年上のお姉さんも12年前に亡くなった。長生きをすればするほど悲しみの経験も増えていく。嬉しいことがあったあとほど寂しさを感じるという。