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「D.W.グリフィス」 のテレビ露出情報

最初期のハリウッドで撮影された作品の多くは、コメディや西部劇の短編映画だった。照明機材の性能が貧弱で室内での撮影が難しかった当時、年間を通して太陽の降り注ぐハリウッドは屋外撮影にうってつけのロケーションといえた。西海岸の静かな田舎町だったハリウッドで映画人たちは好き放題に撮影を行い、騒音や無断侵入といったトラブルも日常茶飯事。当時、映画は「低俗な娯楽」として毛嫌いされており、ハリウッドの住民たちは街を訪れる映画人や俳優に眉をひそめた。こうした状況を変えたのが、映画監督のD.W.グリフィスである。1915年に彼が制作したハリウッド初の長編映画「國民の創生」はのべ2億人が鑑賞する大ヒット作品となり、映画に対する人々の認識は一変する。一方で、この映画によって恩恵を受けたのは映画人だけではなかった。南部出身であるグリフィスの思想を反映し、作中で「正義の味方」として描かれた白人至上主義団体、KKKである。映画の力により勢力を急拡大させていった彼らは、有色人種への憎悪をアメリカ中に撒き散らしていくことになる。
1930年代になると、ハリウッドは黄金期を迎えた。映画先進国であったフランスやイタリアが第一次世界大戦で疲弊する中、急成長したハリウッドは世界最大の映画の都となる。ハリウッドには成功を夢見る若者が全米から押し寄せ、街の人口は15万人にまで急成長した。成功を掴んだ者たちは近郊の新興住宅地に居を構え、その地は「ビバリーヒルズ」として知られることになる。ハリウッドの象徴となる巨大な文字看板が建てられたのもこの時代だった。
当時のハリウッドはワーナー・ブラザースや20世紀フォックスといった5つの巨大映画会社によって牛耳られており、それらは「ビッグファイブ」と称された。ビッグファイブはヨーロッパでの迫害から逃れてきたユダヤ人たちによって率いられ、同じくユダヤ人の俳優や映画館主と共にアメリカの映画産業を盛り上げていく。一方で、その成功を快く思わない者も少なからずいた。自動車王、ヘンリー・フォードもその1人で、彼はユダヤ人の映画によって大衆が堕落するのを防ぐために自らの会社に映画部門を設立。しかし、啓蒙主義的な作風は業界の主流となることは叶わず、10年足らずで映画部門からの撤退を余儀なくされた。
一方、ビッグファイブの一角を占めていたMGMでは創設者であるユダヤ人映画プロデューサーのルイス・B・メイヤーが無名の若者をスターに育て上げるシステムを構築。俳優としての立ち振舞やメイクの方法を若者たちへ徹底的に叩き込んだ。この手法でMGMは数多くのスター俳優を抱えることとなったが、中でもメイヤーが目をかけていたのが13歳で専属契約を結んだジュディ・ガーランドだった。彼女は1939年公開の「オズの魔法使」でアカデミー賞を受賞し、国民的なスターとなる。「近所の女の子」というキャッチコピーで親しみやすい女優として知られたジュディだが、その内実はメイヤーによって徹底的に管理されていた代物だった。覚醒剤を投与された挙げ句に食事の量を極端に減らすダイエットを強制され、メイヤーからは度重なるセクシャルハラスメントを受けていたジュディは心身のバランスを崩し、演技ができない状態に追い込まれる。それから程なくして、ジュディはMGMから解雇された。
アメリカが第二次世界大戦に参戦した1941年になると、ハリウッドも戦時体制へと切り替わる。ハリウッドの映画人たちは政府の求めに応じ、戦争遂行のための映画作りに全面的に協力した。西部劇の名手として知られた映画監督、ジョン・フォードは自らアメリカ海軍に同行しドキュメンタリー作品を制作。ウォルト・ディズニーも軍の教材ビデオやプロパガンダ映画の制作に協力し、アメリカの戦争を支えた。
戦後、空前の繁栄を迎えたアメリカはハリウッド映画によってその豊かさを世界に喧伝していく。1951年の映画「欲望という名の電車」では、マーロン・ブランドが着用していた単なる下着に過ぎなかったTシャツが若者のファッションアイテムとして人気を集め、1955年の「理由なき反抗」では作業着であったジーンズがジェームス・ディーンと共に世界中で爆発的な人気を博した。冷戦下でハリウッドは資本主義の広告塔となっていくが、それ故に政府はハリウッドに共産主義が入り込むことを危惧し始める。1940年代後半からハリウッドには赤狩りの嵐が吹き荒れ、当時の俳優組合で委員長を務めていたロナルド・レーガンは共産主義者と思われた同僚を次々と報告。赤狩りによって共産党に入党していた過去を持つ脚本家のダルトン・トランボは偽名での活動を余儀なくされ、自身の作品である「ローマの休日」がアカデミー賞を受賞した際にもトロフィーを手にすることができなかった。トランボの功績が認められたのは、受賞から40年後だったという。
同じ頃、映画の強力なライバルとして台頭してきたのが新興メディアであるテレビだった。劇場に足を運ぶ観客は年々減り、映画は冬の時代を迎える。しかし、70年代に入るとハリウッドは再び息を吹き返した。ジョージ・ルーカスやスピルバーグといった新世代の監督によって打ち出された大作は空前の大ヒットを記録し、70年代半ばには全米の興行収入も20億ドルにまで回復。同時に、「イージー★ライダー」や「時計じかけのオレンジ」といった社会や人間の暗部を描く社会派の傑作も次々と誕生する。中でも、ロバート・デ・ニーロが政治家の暗殺を企てるベトナム帰還兵のタクシー運転手を演じた1976年の「タクシードライバー」は孤独や閉塞感に悩む若者から支持を集める。公開から5年後には、映画に影響されたジョン・ヒンクリーによって元俳優であったロナルド・レーガン大統領が襲撃されるという事件も発生。レーガンの命を救ったジェリー・パーは、1939年にレーガンが主演した映画「シークレットサービスの掟」でシークレットサービスになることを志した人物だった。
2018年、数々のアカデミー賞作品を手掛けてきた大物プロデューサーのハービー・ワインスティーンが逮捕される。女優の告発によって、彼が長年に渡り女優に性的強要を行ってきたことが明るみに出たのだ。この告発をきっかけに、性被害に耐えてきたハリウッドの女性たちが「#Me Too」を合言葉に立ち上がる。告発の声は映画界以外にも広がり、世界中で一大ムーブメントを巻き起こした。
1969年6月27日、ニューヨークで行われたジュディ・ガーランドの葬儀には2万人の群衆が駆けつけた。睡眠薬の過剰摂取により45歳でこの世を去った彼女は、薬物中毒に苦しみながらもハリウッドで生き続けた。ハリウッドというモンスターに全てを捧げた彼女は、次のような言葉を残している。「どこへ行こうと、何をしていようとハリウッドから離れることなんてできないのです。ハリウッド映画に出ることは女の子が持つ最高の野望のひとつだと今でも思っています。努力は必要だし、落とし穴もあるけれど、それは他のどんな職業にもあることです。もし、もう一度やれと言われたら、同じ選択、同じ間違いを犯したでしょう。それが生きるということだから」。

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