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「産業奨励館」 のテレビ露出情報

平和記念資料館の館長を務めた原田浩さんは中沢と同じ当時6歳で被爆した。父に守られて奇跡的に助かった原田さんの証言を元に高校生らが描いた絵がある。爆心地から1.2キロではその日のうちに50%の人が亡くなり、爆心地に近いと死亡率は80~100%。溢れた遺体は次々と焼かれていった。当時15歳の切明千枝子さんは学校の校庭に穴を堀り犠牲になった友人を火葬した経験を持つ。陸軍出兵の拠点だった旧宇品港。広島にはかつて大本営が置かれ帝国議会も開かれた。発信地であった広島を切明さんは「軍都、加害の町。そのことを忘れて抜きにして原爆の被害を語ることはできない」と振り返る。陸軍被服支廠は被爆を乗り越えた最大級の建物で保存への動きが高まっている。切明さんは軍服を洗濯する仕事に動員された。被爆から1年後の広島の地元紙の見出しにはアメリカ占領下にあった状況が色濃く反映されていた。被爆から21年、市議会は原爆ドームの保存を決意した。

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