新プロジェクトX〜挑戦者たち〜 スケートボード頂点へ“日陰者”たちの逆転劇
横山のフリーペーパーに力をもらった男ショップ経営の冨田誠。スケートボードを始めたのは13歳。のめり込めばのめり込むほど大きな課題を感じた。人や車と接触する危険性があることから街なかは至る所に禁止の看板。人けのない場所を巡っても騒音や治安の悪化を理由に排除された。25歳になった冨田は地元の議会に「パーク」と呼ばれる専用の施設を造ってほしいと呼びかけた。地元の仲間たちの協力で署名を収集。「迷惑がかからない所で練習したい」「安全に楽しみたい」。だが思いは届かなかった。少しでも理解を得ようと手づくりの体験会を開催、しかしなかなか事は進まない。いくつ候補地を提案しても「迷惑」を理由にことごとく却下された。袋小路に入った時、冨田が目にしたのが横山のフリーペーパーだった。そこには全国各地の公共パークが紹介されていた。どのように行政と歩み寄り完成に至ったのかスケーター仲間の活動が参考になった。フリーペーパーをコピーし資料を集めて行政との話し合いを繰り返した。体験会は毎年続けやがて区民祭の恒例行事となった。請願書を出してから7年、2005年7月に使用料のかからない公共パーク、城南島海浜公園スケボー広場がようやく完成。冨田が始めたのは地域住民を対象としたスケートボード教室。とっておきの手本、秋山弘宣を呼び寄せた。
秋山弘宣は1957年生まれで現在67歳。日本のプロスケートボーダー第1号。アメリカで行われた世界選手権に日本人でただ1人参加、フリースタイル部門で上位入賞。評価されたのは誰もやっていないオリジナリティ。アメリカでもプロとして活動した秋山は豊富な知識を持っていた。秋山は独自の指導法を考案、その名もスケート体操で初心者がけがなく始められる方法だった。スケートボードは危なくない。これなら親も安心して子どもを預けられる。このやり方も取り入れながら横山は指導者の養成を始めた。そして横山は次のステップを用意。小学生以下の全国大会。仲間と切磋琢磨し高め合える場にしたかった。ともに大会を支えたのが司会を務める上田豪。選手時代横山に刃向かっていた男。上田は規定の時間が過ぎても納得するまで滑らせた。ライバルのチャレンジにも目を向けさせた。上田はこの仕事を通して横山たちの苦労が身にしみた。仲間から認めてもらい自信をつけた子どもたち。もっとうまくなりたいとますますスケートボードにのめり込む。そうして飛躍のきっかけをつかんだ少年が堀米雄斗だった。小学3年にして大技「マックツイスト」を決める天才少年。レジェンドも一目ぼれした。秋山は月に1〜2回雄斗の練習を見るようになった。
堀米雄斗の父親の記憶に強く残っていることがある。雄斗の技を見た一人が言った「逆足の方が楽にターンできる」。すると秋山がすかさず制した。誰のまねでもなく自分だけの技を編み出すことこそスケートボードの面白さ。秋山自身独自のスタイルがアメリカで喝采を浴びた。堀米雄斗は本場米国でトップ選手の刺激を受け、自分だけのスタイルを追い求めた。そのころ横山たちは大きな転換点を迎えていた。2016年スケートボードが東京オリンピックの競技に採用された。だが横山は戸惑っていた。積み上げてきたものがオリンピックによって失われてしまうかもしれない。横山の前に新たな難問が立ちはだかった。