2024年11月23日放送 8:15 - 9:00 NHK総合

新プロジェクトX〜挑戦者たち〜
スケートボード頂点へ“日陰者”たちの逆転劇

出演者
有馬嘉男 森花子 早川大輔 横山純 
(オープニング)
スケートボード頂点へ“日陰者”たちの逆転劇

パリオリンピックのスケートボード。選手たちが互いに称え合う姿は、観客の心を震わせた。スケートボードは家族みんなで楽しむスポーツ。だがかつては日陰の存在だった。スケートボードの未来を変えたい。これは何度転んでも立ち上がり続けた、はぐれものたちの物語。

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パリオリンピック
オープニング

オープニング映像。

オープニングトーク

スケートボードは昔、やんちゃな若者たちの遊びという印象もあった。イメージが変わったスケートボードはどのような格闘があったのか。

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パリオリンピック
スケートボード頂点へ“日陰者”たちの逆転劇
スケートボード頂点へ“日陰者”たちの逆転劇

1970年代後半「一億総中流」と呼ばれ受験戦争が過熱した時代。都心の歩行者天国には学校では味わえない自由さと自分の居場所を求める若者たちがあふれた。その中に後に日本のスケートボードを改革する男、横山純がいた。中学生の時に映像で見た米国の風景。縦横無尽に滑る少年たちに憧れた。“自分だけのワザを考えたやつがカッコいい”そんな世界に夢中になった。何よりうれしかったのが自分を受け入れてくれる「仲間」の存在だった。しかし世間の反応は真逆だった。1990年代、ファッション中心となったスケートボードはバブル崩壊を機に凋落。過去のブームとして忘れ去られようとしていた。その頃、舞台や映像制作の仕事をしていた横山はチャリティーイベントを手伝って欲しいと頼まれた。自己主張の強いスケーターたちをまとめあげ成功へと導いた横山。その姿を見ていた関係者から声がかかった。「どん底のスケートボードを救ってくれ」あまりの無理難題だった。横山は事務局長を引き受けた。手始めに行ったのが大会の開催。会場の設営に必要な資金を関係する企業からかき集め、僅かな予算をやりくりし必ず賞金を用意。その分運営するスタッフはほとんど手弁当。だがその思いはなかなか理解されなかった。上田豪は社会に反発したい気持ちでスケートボードを始めた。大人に管理されることに強い抵抗があった。早川大輔は何度も大会で入賞を果たした実力者。スケートボードだけで生活することを夢みていた。どうすればみんなが同じ方向を向いてくれるのか。考えた末、横山はあるものを作り上げた。スケーターたちに向けたフリーペーパーを全国のスケートボード販売店に置き無料で配ってもらった。主に取り上げたのは自分と同じ裏方たち。流行が廃れた時にも道具を輸入し続けた者。借金して練習場所を造りスケーターを支える経営者。自身のコラムには強い決意を込めた。

スタジオトーク

スケボーの何にハマった?と聞かれ横山純は「横乗りスポーツと言われているサーフィンなどは、Gの移動を体に直に感じられる。スケードボードは悪くなくて、それを使ってる人間が悪い。大会をやることによってお互い刺激し合う、注意し合う環境。そういった物定着させることが協会としても重要なことだと思っていた」などと話した。

スケートボード頂点へ“日陰者”たちの逆転劇

横山のフリーペーパーに力をもらった男ショップ経営の冨田誠。スケートボードを始めたのは13歳。のめり込めばのめり込むほど大きな課題を感じた。人や車と接触する危険性があることから街なかは至る所に禁止の看板。人けのない場所を巡っても騒音や治安の悪化を理由に排除された。25歳になった冨田は地元の議会に「パーク」と呼ばれる専用の施設を造ってほしいと呼びかけた。地元の仲間たちの協力で署名を収集。「迷惑がかからない所で練習したい」「安全に楽しみたい」。だが思いは届かなかった。少しでも理解を得ようと手づくりの体験会を開催、しかしなかなか事は進まない。いくつ候補地を提案しても「迷惑」を理由にことごとく却下された。袋小路に入った時、冨田が目にしたのが横山のフリーペーパーだった。そこには全国各地の公共パークが紹介されていた。どのように行政と歩み寄り完成に至ったのかスケーター仲間の活動が参考になった。フリーペーパーをコピーし資料を集めて行政との話し合いを繰り返した。体験会は毎年続けやがて区民祭の恒例行事となった。請願書を出してから7年、2005年7月に使用料のかからない公共パーク、城南島海浜公園スケボー広場がようやく完成。冨田が始めたのは地域住民を対象としたスケートボード教室。とっておきの手本、秋山弘宣を呼び寄せた。

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城南島海浜公園スケボー広場

秋山弘宣は1957年生まれで現在67歳。日本のプロスケートボーダー第1号。アメリカで行われた世界選手権に日本人でただ1人参加、フリースタイル部門で上位入賞。評価されたのは誰もやっていないオリジナリティ。アメリカでもプロとして活動した秋山は豊富な知識を持っていた。秋山は独自の指導法を考案、その名もスケート体操で初心者がけがなく始められる方法だった。スケートボードは危なくない。これなら親も安心して子どもを預けられる。このやり方も取り入れながら横山は指導者の養成を始めた。そして横山は次のステップを用意。小学生以下の全国大会。仲間と切磋琢磨し高め合える場にしたかった。ともに大会を支えたのが司会を務める上田豪。選手時代横山に刃向かっていた男。上田は規定の時間が過ぎても納得するまで滑らせた。ライバルのチャレンジにも目を向けさせた。上田はこの仕事を通して横山たちの苦労が身にしみた。仲間から認めてもらい自信をつけた子どもたち。もっとうまくなりたいとますますスケートボードにのめり込む。そうして飛躍のきっかけをつかんだ少年が堀米雄斗だった。小学3年にして大技「マックツイスト」を決める天才少年。レジェンドも一目ぼれした。秋山は月に1〜2回雄斗の練習を見るようになった。

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堀米雄斗

堀米雄斗の父親の記憶に強く残っていることがある。雄斗の技を見た一人が言った「逆足の方が楽にターンできる」。すると秋山がすかさず制した。誰のまねでもなく自分だけの技を編み出すことこそスケートボードの面白さ。秋山自身独自のスタイルがアメリカで喝采を浴びた。堀米雄斗は本場米国でトップ選手の刺激を受け、自分だけのスタイルを追い求めた。そのころ横山たちは大きな転換点を迎えていた。2016年スケートボードが東京オリンピックの競技に採用された。だが横山は戸惑っていた。積み上げてきたものがオリンピックによって失われてしまうかもしれない。横山の前に新たな難問が立ちはだかった。

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東京オリンピック
スタジオトーク

オリンピックは横山純が目指したものではなかった。横山は「日が当たりすぎ。当たり過ぎだと枯れてしまう」などと話した。スタジオに早川大輔がやって来た。

スケートボード頂点へ“日陰者”たちの逆転劇

どうすればオリンピックを追い風にできるのか、横山は1人の男を推薦。かつて大会の賞金が少ないと嘆いていた早川大輔。早川は関係者が集まる場に呼ばれ「今日から君が日本代表のコーチだ」と告げられた。早川は中学の時、規律の厳しい部活動になじめずスケートボードを始め一気にハマった。20代、憧れのアメリカでプロを目指すも挫折、帰国後は若い世代に夢を託そうと裏方の仕事も始めた。時にトラック運転手もしながら若手の留学資金を工面、スケートボードへの思いは人一倍だった。代表コーチに戸惑う早川に横山は「大ちゃん君はスケートボードに選ばれてしまったんだよ」と言った。それは横山がかつてフリーペーパーに記したメッセージ。その言葉に早川は「この人は自分の生きざまを認めてくれている」と確信。しかしいざコーチを始めるとすぐ壁にぶつかった。他の競技に倣って行った強化合宿。皆一番練習したい大技に取り組もうとしなかった。スケートボードでは見栄えがするオリジナルの技ほど高く評価される。早川はやり方を見直すことにした。自ら日本各地の練習場に赴き個別に向き合う。それぞれのスタイルを尊重し挑戦する背中を押す、それがスケートボードのコーチの役割迎えた2021年東京オリンピック。スケートボードが史上初めて世界最大のスポーツの祭典で行われる。その舞台に日本代表として乗り込んだ堀米雄斗。ひそかに磨いてきた大技を用意していた。後ろ向きでレールに飛び乗り270度回転してボードを滑らせるノーリバックサイド270°ボードスライド。この失敗で堀米は一つのミスも許されない状況に追い込まれた。助言を求められた早川はまっすぐに「お前なら絶対にできる」と答えた。堀米は再び新技を選んだ。自分のスタイルを貫いた堀米。オリンピックの初代チャンピオンに輝いた。その姿を感慨深く見つめる者たちがいた。かつて街の邪魔ものといわれてきたスケートボード。それでもスケートボードにしかない魅力を信じて走ってきた。勝ち負けよりも自分だけの技にこだわりライバルともたたえ合う。選手たちは全身でスケートボードを表現した。先人たちがまいてきた種はオリンピックで花開いた。

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堀米雄斗東京オリンピック
スタジオトーク

早川大輔は「勝つための戦略という考えではなく、スケートボードらしさ。その場でどういうベストな判断をするか、それを自分たちのスキルでどう着地するかってところに全集中した。僕がコーチを考えたときに、超絶うまい若い子たちのファンでいようと思った。ファンとして距離を縮めるようにしている」などと話した。横山純は「スケートボードはかっちょよくて人の記憶に残ったやつが優勝なんですよ。あの大会で優勝は堀米だけだけど、何人も優勝した人がいた。金メダルが1個しかないのはずるい」などと話した。早川大輔は「スケートボードを知ったことで幸せになったって人が世界中で増えてくれることを願っている」などと話した。

スケートボード頂点へ“日陰者”たちの逆転劇

2つのオリンピックを終えてスケートボードの環境は大きく変わった。2017年に100か所だった公共パークは475に拡大。愛好者は10万人以上増えた。スクールではケガをさせない指導が受け継がれている。子どもたちは互いに高め合いながら新のスケーターへと成長していく。

(エンディング)
次回予告

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