安保闘争 燃え盛った政治の季節

2024年6月3日放送 22:04 - 22:44 NHK総合
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1951年9月に日本はサンフランシスコ講和会議で条約に署名し、その後は日米安全保障条約に署名した。安保条約は不平等条約だったこともあり、砂川闘争や安保闘争につながっていった。そうしたこともあり当時の首相の岸信介は日米安全保障条約の改定を目指した。ただ唐牛健太郎が率いる全学連が安保改定に反対の立場を示した。そこで羽田空港を占拠するという事件を起こした。しかし1960年に新しい日米安全保障条約の調印が行われた。
岸信介は条約調印を急ぐために強行採決に踏み切った。そして国会への警官隊導入という非常手段で新安保条約は採決された。国会に警官隊を突入させた政府に国民は怒り、安保反対を叫ぶ人が増えたという。全国でストライキが発生し、死者も出るようになったという。しかし新安保条約は採決されてしまった。
1964年、佐藤栄作が首相になった。その3ヶ月後にベトナム戦争が始まり、沖縄からは連日爆撃機が飛び立っていった。そのため学生たちによる安保闘争が再び始まった。その頃、東京大学では、大学改革を訴える学生たちが東大全共闘を組織して大学当局を対立していた。そこに他の大学の学生も入って活動は過激化していった。学生は安田講堂に立て籠もり、機動隊は安田講堂になだれ込んでいき、立てこもった学生は逮捕された。
1970年に日本万国博覧会が行われた。そして1970年6月23日に日米安全保障条約は自動延長された。若者たちの熱は冷めていき、何事もなく企業社会の一員になっていった。一方で新左翼の一部は過激化して、1972年にあさま山荘事件を起こした。ただ凄惨な実態が伝えられて新左翼運動は完全に国民に見限られた。
日米安全保障条約はその後も自動延長を続けて現在に至っている。唐牛健太郎は学生運動から身を引いており、色々な職を転々としてきた。唐牛健太郎は47歳で亡くなるまで無頼の生き方を貫いたという。


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