2023年8月12日放送 3:55 - 4:50 フジテレビ

アイ アム アトミックボム サバイバー
〜小倉桂子が伝え続ける理由〜

出演者
小倉桂子 
(オープニング)
オープニング

今年5月、広島でG7サミットが行われた。各国首脳らが原爆資料館にも足を運んだ際、小倉桂子さんは原爆の恐ろしさをたった1人で伝えた。核保有国であるフランスのマクロン大統領はその時のことを「とても心を揺さぶられるものがあった」などと振り返った。なぜ小倉桂子さんなのか。小倉桂子でなければならなかったのか。番組は小倉桂子さんの2年半に密着した。

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(アイ アム アトミックボム サバイバー 〜小倉桂子が伝え続ける理由〜)
アイ アム アトミックボム サバイバー 〜小倉桂子が伝え続ける理由〜

2021年、コロナ禍の中、小倉桂子さん(当時83)はオンラインで世界に原爆の恐ろしさを訴えていた。桂子さんは8歳のときに被爆した。当時、広島市には約35万人がいたが、14万人が即死、またはその年のうちに亡くなった。桂子さんは爆風で地面に体を叩きつけられたが奇跡的に軽傷だった。しかしその後が地獄だった。桂子さんの体験は「ケイコの8月6日」という紙芝居になっている。桂子さんはその後、26歳で結婚し専業主婦になり、2人の子を育てた。夫は移民の子としてアメリカで生まれ、12歳で父の故郷である広島に帰ってきていた。夫は陸軍に入隊していて、捕虜として過酷な体験もしている。2人の出会いのきっかけはドイツ生まれのジャーナリスト、ロベルト・ユンクにある。ユンクは広島の原爆被害を取材し「灰墟の光」を出版、世界に原爆の恐ろしさを知らしめた。夫の馨さんは「灰墟の光」資料集めや資料の翻訳に携わった。一方、桂子さんは被爆者として取材を受けた。馨さんは市役所で通訳や翻訳業務や、原爆資料館の館長などを務めた。原爆資料館の対話ノート(訪れた人が自由に書き込む)は、馨さんによって始められた。他にも馨さんは、アメリカ軍が撮影した原爆被害の写真などを探し出して持ち帰るなど、原爆の恐ろしさを伝えるために奔走した。馨さんが58歳で突然くも膜下出血で亡くなると、桂子さんのもとに馨さんの代わりに通訳をしてほしいという依頼が次々に舞い込んだ。次第に桂子さんは、英語で伝えられる数少ない語り部として、通訳だけでなく自らの被爆体験も伝えるようになった。以来40年以上、年間2000人のペースで伝えてきた。2021年は同い年の語り部が次々と天国へ旅立った。残された時間で自分に何が出来るのかを考えるようになった。そんな中、2022年2月、核大国ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。プーチン大統領がやすやすと核の使用をほのめかしたとき、桂子さんはショックを受けた。今こそ被爆者の声を聴きたいと、桂子さんのもとには世界各国から取材の依頼が相次いだ。東京の大学でデザインの勉強をする横山栞央さんは広島出身で、高校時代は桂子さんの紙芝居の制作に携わった。横山さんはいつか桂子さんの紙芝居を出版して多くの人に伝えたいと、今も手直しを続けている。2022年5月、地元選出の岸田文雄首相がG7サミットの広島開催を発表した。

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2022年10月、桂子さんは依頼を受けてアメリカで講演を行った。桂子さんの体調を気遣った息子の史郎さんも同行した。アメリカの空港で桂子さんたちを迎えたのは東條梓さん。東條さんは桂子さんの被爆証言に感銘を受け、今回、自分が勤めるアイダホ大学での講演を企画・依頼した。アイダホ大学では原爆展が開かれた。桂子さんは東條さんが担当する日本語の授業にサプライズ訪問し、紙芝居を披露し、生徒たちに英訳版を作ってくれるよう依頼した。アイダホ大学では桂子さんの訪問に合わせて様々な特別授業が組まれていたが、東條さんはその1つを不安に思っていた。アイダホ大学では将来軍隊に入る人のために戦術などを学ぶ訓練過程があるが、桂子さんはその授業に招かれていたのである。その授業では現在の原子爆弾は広島に落とされたものの3300倍の威力があることなどに言及した。意見を求められた桂子さんは、悲惨な結果を招いた広島の爆弾のさらに3300倍というものがどういう結果を招くか想像してみてほしいなどと話した。渡米4日目、桂子さんの講演の日を迎えた。追加席が必要になるほど多くの聴衆が集まった。東條さん日本語クラスの学生であるデヴィンも来ていた。デヴィンさんは桂子さんとの出会いをきっかけに、広島についていろいろ学び始めたという。デヴィンさんは「核兵器は戦争の終わりの道具ではなく世界の終わりの道具」だと話した。デヴィンさんは日本語クラスの仲間とキャンパス内で折り鶴を作る活動を広め、“佐々木禎子さん”(2歳で被爆し12歳で亡くなった被爆者。病室で鶴を折って回復を祈った)の物語を伝え始めた。

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2023年3月。広島の街はG7サミットに向けて気運が高まってきた。取材などで桂子さんはさらに忙しくなった。一方で、ロシアのウクライナ侵攻からも1年が経っていた。ウクライナから広島に避難してきたアンナ・セメネンコさんは桂子さんから話を聞いた。桂子さんは取材スタッフに「マスコミには正しいことを伝えることについて責任がある」ということを繰り返し伝えていた。そして、広島サミットの日を迎えた。

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G7サミットのため各国のリーダーが広島に集結した。桂子さんはサミット開幕の直前、首脳たちと面会する被爆者に指名された。サミット1日目、桂子さんは外務省の職員に案内されて原爆資料館に入っていった。そこに首脳たちが入り、桂子さんは1人で被爆者としての思いを伝えた。いつもそうしているように、核兵器がもつ怖さについてフォーカスして話した。桂子さんはホテルで休んだ後、午後7時前に記者会見に応じた。大役を終えたかに見えた桂子さんだが、役目はまだ終わっていなかった。サミット1日目夜にG7首脳広島ビジョンとして発表された内容は、真剣というには程遠いだけでなく、むしろ核兵器の抑止力を容認するものだった。被爆者たちからは憤りの声が上げられた。サミット2日目、ウクライナのゼレンスキー大統領が電撃来日した。サミット3日目、桂子さんは核保有国インドを含む招待国8カ国の首脳に面会し、被爆証言をした。午後にはゼレンスキー大統領のもとへ向かった。

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サミット3日目の午後、ゼレンスキー大統領が平和公園に到着した。すべてが終わり、桂子さんが自宅に着いたのは午後9時。記者会見を断るほどヘトヘトだった。翌朝、桂子さんから取材スタッフに電話があった。桂子さんは自分の体調で記者会見をやめたことを悔いており、記者会見を呼びかけてほしいと話した。緊急で記者会見が行われることになった。桂子さんは、ゼレンスキー大統領と対面し泣くのを我慢するのが大変だった、戦争を一分でも早く終わらせなきゃいけない、などと話し、核兵器を使うべきではないことを世界中に呼びかけた。今、平和公園には、コロナ禍の前より大勢の人が世界中から訪れるようになった。原爆の子の像には、アイダホ大学から千羽鶴が届いていた。小倉桂子さんは今日も全力で伝えている。

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(エンディング)
エンディング

エンディング映像が流れた。

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